*ブログをこちらに引っ越しました。いずれ旧記事もすべてこちらに移ります。
すみませんがしばらくご面倒をおかけします。旧ブログはこちらです⇒link:「世阿弥の思想」
It is conceivable that the masking and dressing of gods in Waki Nō were influenced by some statues or pictures of Shinto gods.
――脇能の神体の出立はある種の神像の彫刻や絵画を投影しているのではないかと思われる。
――前回の記事「能の神体の出立と神像」の続きです。
日本に育った人で仏像を知らない人はまずいないと思いますが、神像は意外に知られていません。道祖神のように道端で見られるものもありますが、歴史的にも仏像ほど拝む機会の多いものではありませんでしたからもっともです。神像の彫刻や絵画は神社に蔵されているものが多いのですが、全ての神社で見られるわけではなく、神社では神像があっても、むしろ大切に奥にしまわれてきたのです。
今知られている古い神像は、平安時代初期から中頃まで遡れるようです。歴史的に見れば、仏像に倣って神像が作られるようになったと考えられています。近代に入ってからは、一部の神社で文化財として公開されたり、新たに発見されたことがニュースになったりして、少しずつ一般にも神像が知られるようになりました。百聞は一見にしかず、日本の代表的な古い神像の写真のリンクをいくつか次に貼っておきます。女神と対になっているものもあり興味深いのですが、今回は男神の姿にとくに注目してください。
彫刻の例
・link:松尾大社(京都)の神像(老年・壮年の男神二体・女神一体)
・link:広隆寺(京都、秦氏ゆかりの寺)の秦河勝(はたのこうかつ)夫妻神像(上から13段目の写真)
・link:佐賀県鳥栖市幸津天満神社男神・女神像(上から4項目目の男女2体のもの)
絵画の例
上のリンク先の男神の写真では、冠の「脚(きゃく)」の部分が垂れ、背後に回っているものがあってわかりにくいかもしれませんが、これらの冠の形状と、能の唐冠(リンク先上から4段目)の形状は基本的に同一です(青木遺跡と幸津天満神社の例を私は実際に見ていませんが、やはり同じだと見てよいと思います)。能の透冠(リンク先上から4段目)も、透かし模様がある以外は同じ形状です。
実は上の神像の姿は、日本の平安時代の貴族の正装と同じです。高貴な姿として描くために、貴人の姿が参考にされたのでしょう。そしてさらにたどれば、古代の貴族の服飾は、中国の唐代の官人の服飾をおおかた写し取ったもので、冠は、中国の「幞頭(ぼくとう)」と呼ばれる冠を写しています。
上のページの説明によれば、幞頭は、もとは中国の北西の漢民族とは違う民族の風俗であったものが、唐代〔618-907〕に至って皇帝までもが着用するようになったとあります(このページの説明についてはまた別の回に取り上げます)。これが遣唐使によって日本にもたらされ、日本でも貴族の正装として定着し、またそれが日本の神像の姿にまでつながっているというわけです。
以上特徴的な冠について見てきましたが、神像と『弓八幡』『高砂』『養老』の後シテの神の出立を、その他の面でも簡単に較べてみます。これらの出立は面が「邯鄲男(かんたんおとこ)」、装束は下衣が「白大口(しろおおくち)」、上衣が「袷狩衣(あわせかぎりぬ)」でした(前回の記事に書きました)。
能の面「邯鄲男」(⇒link)は、眉間にしわを寄せています。憂いを含んだ悩みの表情とも言われますが、上の神像にも見られるいかめしさ=緊縮相に近い点には注目したいところです。これが普通の人間とは違う、神特有の威厳ある表情だと言えるでしょう。口ひげ・あごひげが描かれている点は人間と同じですが、多くの神像とも共通しています。
下衣「白大口」は無地の白袴です。神像の絵画では袴に模様の描いてあるものが多いのですが、それほど麗々しいものではないので、白大口という出立は、それと同一とまでは言えませんが近いと言ってよいでしょう。
上衣「袷狩衣」は白大口と違って通常大きな模様があります。(⇒link:《高砂》後シテの出立、9/13以降の写真)
上の例のように古い神像の絵画の上衣はふつう無地で地味ですから、この点では脇能の神体は違っています。ただし日光輪王寺常行堂などの摩多羅神像(またらしんぞう)の上衣は他の神像と較べて派手なものです。下にリンクを貼っておきます。
・link:日光輪王寺常行堂摩多羅神像(川村湊氏『闇の摩多羅神』表紙より)
このように、全く同一とは言えないにしてもこれだけ共通点があり、全体の姿も近いのですから、両者が無関係とは思えないのです。ちなみに、この神体の姿は、室町時代の能の伝書の内容からもほとんど同じような装束だと考えられています。やはり脇能『弓八幡』『高砂』『養老』の後シテの神体の出立は、神像のイメージにヒントを得て形作られたのではないでしょうか。
ただし、一つだけ違うと言えるのは、脇能の神体は「黒垂(くろたれ)」という長い仮髪を着け長髪を見せていることです。神像が貴族と同じように冠の中に髪を結って入れ込んでいる姿とは異なっています。この点だけは、脇能の神体は冥界の鬼に近いと言えるでしょう。冥界の鬼の役は、ふつうは仮髪の赤頭(あかがしら)を着けています。
・鵜飼(⇒link:《鵜飼》後シテ冥界の鬼の出立、8/11~10/11の写真)
このように能では、ふつうの人間と違う超人的な役は髪を結わず、かぶり物の外に髪を垂らして(放して)いる姿をしています。脇能の神体は、ここだけはどうやら超人的な存在だということを強調して、神像とは少し違う能らしい姿として形作られたようです。ふつうの人間と同じように冠に髪を入れ込んでいたら、舞台上の姿としては、ふつうの人物の役と区別がつきませんから。
☆プラスα⇒広隆寺に神像がある秦河勝は、世阿弥の『風姿花伝』神儀篇に大和猿楽の先祖として記されています。関連記事を以前書きました。こちらです⇒link:「世阿弥の猿楽起源説は荒唐無稽?」、link:「秦氏の家系」、link:「欽明天皇の夢」、link:「太子と河勝」
◇◇◇◇◇
この記事は、多くのウェブサイトのお力を借りて書かせていただいています。各ウェブサイトの関係者の方にお礼申し上げます。
また、本記事のリンク先の写真等の情報の複製等につきましては、リンク先のご指示に従ってください。無断複製禁止のページが多いと思いますので、引用につきましては十分にご注意ください。