今回は、話題としては世阿弥から離れるようですが、しかし、前回の記事に書きました世阿弥のことばとも、どこかでつながっていると私が考えることを、書いてみたいと思います。
最近、ある若い数学者の知人に教えていただいて、黒川信重氏という数学者の著書を読んでいます。黒川氏は、「絶対数学」という分野を切り開かれた方だそうです。もっとも、私は数学にはもとより暗く、軽々に専門の術語を取り上げるのはおこがましいのですが、まあ、そうでもしなければ話題にできませんので、このあたりは笑ってお許しください。
その黒川氏の著書は『ラマヌジャンζの衝撃』(現代数学社、2015)というものです。ラマヌジャン(1887-1920)はインドの天才数学者。「ζ」は「ゼータ」と訓み、ラマヌジャンが発見した「高次の数力」のことだそうです(同書p.1)。この本の途中からは数学の専門的な内容で、私などには到底理解できませんから、最初の数章の、数学史や学問の在りかたに関する部分だけを読みました。ところが、まったく専門外の私にも、ここに提示された史実や問題意識の数々には、大いに共感させられ、考えさせられるものがありました。
以下、その内容について書きますが、なにぶん門外者のため、誤りや不備にお気づきになられましたら、なにとぞご叱正をお願いいたします。
インド出身のラマヌジャンは、ヨーロッパ数学の知識が乏しい中で、独自の発想から数学の研究に取り組んだ人でした。当時の有力な数学者ハーディ(1877-1947)の紹介で、1914年にイギリスに渡り、ケンブリッジ大学で研究する機会を得ましたが、そこでの研究生活は決して安穏なものではなかったらしいのです。第一次世界大戦下の悪環境もわざわいして、結局ラマヌジャンは当地で健康を害し、5年後にインドに戻って間もなく、30代前半の若さで生涯を閉じます。
そのケンブリッジ大学でのラマヌジャンの不幸には、上の黒川氏著書によれば、彼の紹介者であったはずの、イギリス出身の数学者ハーディの態度や評価が大きく関与していました。ハーディは結局、ラマヌジャンの力や研究を適切に評価せず、数々の意地の悪い対応をしたというのです。そこには、ラマヌジャンがヨーロッパ数学の「複素関数論」なるものの知識をもたずに研究していたことが、大きく関係していたそうです。
ラマヌジャンがハーディに送った数学に関するある手紙に対して、ハーディは、およそ次のようなことばで非難をしています。「ラマヌジャンの説から学ぶことは何もないし、何の可能性も見出せない。根本から、まともにやってもらわなければ。優れた数学者は、こんな盗賊や詐欺師のようないかがわしい手を使うのとちがって、常識があるものだ」(同書p.48の英文の大意をブログ著者の私が翻訳)。
黒川氏は、ハーディがこの辛辣な言葉遣いを平気で行うことに驚かされると述べつつ、そこに、数学の「専門家」がもつ、「他人を疑ってかかるのが当然、という体質」を指摘しています。「複素関数論」の知識がないため、別の道を通ってなんとかしようとしたラマヌジャンのやりかた、その「無知」を突いてくる。そこにあったのが、「こんなことも知らないで数学をやっているなんて、許せない!」という、ある意味で“本気”の怒りだったのか、または、その「無知」につけこみ“自分たち”と差別化し身を守ろうとした、したたかな〈ギルド体質〉だったのかは、私にはわかりません。しかし、いずれにせよ、それが何らかの“狭量”によるものだったことは、間違いないでしょう。
黒川氏は、このあたりの「専門家」の問題について、かなり明確なメッセージを発信しています。
専門家は所詮ある時期の研究レベルの専門家ですので、当然、時代に縛られます。さらに、専門家は自信家ですので、自分の知らないことやできないことを他人がやれるということを認めたくない人種です。専門家の評価ほど真実から遠ざかっているものも少ないでしょう。(同書p.20)
ここには、「専門家」が陥りがちな基本的な問題が指摘されていますが、その自信や保身に起因する問題のほかに、ここでは「時代に縛られる」という重要なポイントも挙げられています。
例を、本ブログらしく、世阿弥や能楽の研究史に取ってみます。
1970年代頃までは、能楽研究といえば、世阿弥の能楽論にかなりの注目が集まっていました。とくに、世阿弥の論から敷衍される、藝道、その他様々なものの修得・修業(修行)・教育という観点、ひいては人生を生きることの心構えという観点が重視されていたように思います。世阿弥の論は基本的に真剣です。その真剣さの内実がどんなものであったかに私は取り組んでいるのですが、その「証明」結果が出ないまでも、「予想」として真剣だと感じる人は少なくなかったと思います。そして、誰でも世阿弥の論のその真剣さを、有用なものとして活かす可能性があると見られていました。したがって、学問としても、国文学のほかに、哲学・美学・倫理学、思想・宗教研究、教育研究など、様々な分野・領域で研究が可能だったのです。
しかし1980年代に入る頃から、国文学の当時の若手の人たちも含めて、中心テーマは能の作品研究へとシフトしていきました。作品研究にはまた別の価値があることはもちろんですが、その時代傾向には、真剣な“思想”や“前向きな人生”に、何かしら疲れ、あまり好意的に見ることができないような、あるいは、その真剣さを第三者的に皮肉に眺める雰囲気もあったように思います。前の時代の世阿弥能楽論への人気には、戦後における、戦前への反省や、前向きに社会を建設していこうという人々の姿勢も無関係ではなかったと私は考えていますが、「ドッチラケ(しらける)」の流行語などとともに、真剣さが無価値化される力が、80年代に入る頃からはたらいたと思います(日本における流行語の威力はもの凄いものがあります)。したがって、“真面目で小難しい”能楽論より、“見てわかる、何かを感じられる舞台”、すなわち“修行”の軸が“享楽”の軸へと、取って代わられたのです。繰り返しことわっておきますと、作品研究には独自の価値があると思いますが、こうして、世阿弥能楽論研究は、下火になってゆきます。もちろん以上がすべてではありませんが、このようないきさつもあったと、私は考えています。
しかも一方、国文学の世界では、20世紀の後半、かつてよりも伝本研究に注目が集まり、和文にかぎってですが(と私は考えます。漢文は別です)、細かい原本対照・校訂が進み、それまで無名だった文献にも研究のメスが入りました。かつては、言ってみれば有名古典の「『源氏物語』における紫上の人物造形」などといったテーマが、大した伝本比較もなしに行われても、ある程度許されていました。それが、『源氏物語』といえば、中世以降の『源氏物語』注釈を見なければ駄目、それらの善本や質の高い校訂を用いなければ駄目、この人の論文参照は必須、など、ちょっと離れたことに注目していると、壁が高くて手が出せない情況が生じてきました。「専門家」の出番です。「この伝本も知らないのか!」という「ダメ出し」が飛び交うようになり、「これはね、この伝本とこの伝本を見ればだいたい大丈夫ですよ。この本(伝本)は所蔵者がなかなか見せてくれなくてね……」など、〈専門解説者〉が現れるようになりました。こうやって、国文学の〈縦割り化〉〈ギルド化〉が進みます。
私は今でも忘れません。学生だった頃、注釈がない能の作品を読む授業で演習の担当をしたときに、『古今和歌集』の和歌が踏まえられていたので、その旨の注を付けたところ、先輩から、「これはね、『古今和歌集』そのものから引っぱってくるんじゃないよ。中世の『古今和歌集聞書三流抄』や『毘沙門堂本古今集注』を見なくては駄目」と、親切な(アドバイスとしては100%善意からの)アドバイスを頂戴しました。――――私は知っていました、それらの注釈があることを。しかし、「どうしてまず最初に『古今和歌集』を引いてきてはいけないんだろう?」という疑問は消えませんでした。しかし、当時、それをアティキュレート(明言)してはいけなかったのです。〈禁句〉であり〈見える地雷〉だったのです。ましてや、「そちらが大本(おおもと)なのではありませんか?」などと言おうものなら、「生意気だ」「あなたはまだ勉強が足りない。中世がわかってない」「そんなものまで引いたらスペースが無駄、資料が多ければいいってもんじゃない」等々、周囲のいろいろな“反響”があったに違いありません。
このような情況でしたから、ましてや、国文学以外の分野の研究者が世阿弥能楽論や能の作品を用いて何かを論ずることは、やりにくくなっていきました。そういう論文に対して、国文学の「専門家」から、「こんな杜撰な資料の引き方をして」「もう今の時代は、哲学や美学畑の人にはレベルの高い研究は無理だよね」に類する評価が行われる場に、私はたびたび居合わせました。同じ人文学の中でさえ、「専門家」の視野と度量はどんどん狭くなっていき、「専門家」でない人にとっての壁は、どんどん高く、厚くなっていきます。国文学に海外の研究者がかなり参加するようになった今でも、そういう風潮はまだまだ残っているのです。そんな場面に時折出くわします。
以上はラマヌジャンの話そのものとはケースが違いますが、大筋としては、「専門家」と「時代性」に関する、同類の問題だと思います。思考にしても、作業にしても、「四角い所を丸く掃く」のがよいわけはありませんが、人には限界があります。“わかってはいてもその限界のために” 、あるいは “地盤が全く異なるために”、部分的に問題が生じることに対しては、広い心をもって、独自の着想や発想の素晴らしさや、その観点・方法論ならではの有用性に、目を向けることが必要だと私は思います。そもそも、一定以上に大きなテーマというのは、本来素朴なものです。――「世阿弥はなぜあんなに真剣に能楽論を書いたのだろう」などと。全く素人的なのです。私は、こういう「素人感覚」を大切にしています。私が担当させていただく講座受講者などの方で、熱心に私に話しかけてくださる方々が時々いらっしゃいますが、そういう方々とは、そういう所でつながっているように思います。それは「このテクストのどの伝本のどこぞの字がどうなっているか」などの専門的なこととは全く違います。このような専門的な問題が重要でないとは言いませんが、それも、結局そういう素人的な疑問のためにやっているのでなければ、あまり意味がないように、私は思ってしまいます。どんな専門家でも最初は「素人」です(それを忘れている、または認めたくない「専門家」がどれほど多いことか)。「素人」は「専門家」の下に見られやすい概念ですが、ほんとうは「素人」のほうが広く、ある意味偉い。それが入口だからです。ある学者が学問の入口に立った「素人」の時に、(1) どのくらいその人の視野が広く(またはその可能性をもっており)、(2) 素朴な(「知識」「常識」にとらわれない)問いかけを持っているか、で、学問の程度は決まってしまうようにも思います。世阿弥も「大の内には小あり。小の内には大なし」と言っています(本ブログの前回記事)。「大」が素人、「小」が専門。ああそういえば、「初心を忘るべからず」というのもありました(『花鏡』奥段等)。“最初の地点に立った時の状態を忘れるな”です。最初の地点は、不馴れでプリミティブでもあり、一方でその感覚は新鮮。――――ですから学者・研究者も、お互いに限界がある者同士、良い点を摂り入れて、あとは後人が手直ししていってもよいではありませんか、と言いたくなるのですが、そのような発言が、どこまで実際、受け容れられるのか……。ただし黒川氏は「アマチュア的発想は学問を再生させるためには必須のものです」とも述べています(同書p.18)。黒川氏は長年東京工業大学に勤務なさった方だそうですが(最近定年退職された由)、そのような「専門家」に囲まれた環境にあった方からこのようなことばをうかがえることには、たいへん元気づけられます。
ラマヌジャンの話に戻りますと、彼はハーディに、数学に関する手紙やノートを大量に送ったそうです。しかしその「情報の流れ」は「ラマヌジャンからハーディへと一方通行になってい」たとのこと(同書p.49)。片思いで無駄であることを「予想」しつつメールや手紙を送り続け、相手からは一向に返事が返ってこない――こう言い換えれば身に多少の覚えも……。冗談はともかく、こんな淋しい情況が続いたら、人間まいってしまいます。ケンブリッジでラマヌジャンは、そのような思いを抱えていたのかもしれず、戦争ばかりでなくそのことも、あるいは彼の間もない死につながっているのかもしれません。しかしいずれにしても、それでも熱心に手紙やノートを送り続けるラマヌジャンの一途さ、数学への熱意、人間という存在を素朴に信頼しようとする心というものに、まったく門外の、時代も環境も違う私がおこがましいのですが、学問に対する一人の人の魅力のいくばくかばかりは、感じ取ることができるように思います。
この黒川氏の著書に関しては、ほかにも多少書きたいことがありますが、それはまた別の記事で。
最後に、黒川信重氏には面識がありませんが、このようなご本をお書きになった黒川氏、そしてこのご著書に価値を見出し私に紹介してくださった若い数学者に、謝辞を述べたいと思います。