学問の「専門家」と「アマチュア」的発想:黒川信重氏『ラマヌジャンζの衝撃』を読んで


今回は、話題としては世阿弥から離れるようですが、しかし、前回の記事に書きました世阿弥のことばとも、どこかでつながっていると私が考えることを、書いてみたいと思います。

最近、ある若い数学者の知人に教えていただいて、黒川信重氏という数学者の著書を読んでいます。黒川氏は、「絶対数学」という分野を切り開かれた方だそうです。もっとも、私は数学にはもとより暗く、軽々に専門の術語を取り上げるのはおこがましいのですが、まあ、そうでもしなければ話題にできませんので、このあたりは笑ってお許しください。

その黒川氏の著書は『ラマヌジャンζの衝撃』(現代数学社、2015)というものです。ラマヌジャン(1887-1920)はインドの天才数学者「ζ」は「ゼータ」と訓み、ラマヌジャンが発見した「高次の数力」のことだそうです(同書p.1)。この本の途中からは数学の専門的な内容で、私などには到底理解できませんから、最初の数章の、数学史や学問の在りかたに関する部分だけを読みました。ところが、まったく専門外の私にも、ここに提示された史実や問題意識の数々には、大いに共感させられ、考えさせられるものがありました。

以下、その内容について書きますが、なにぶん門外者のため、誤りや不備にお気づきになられましたら、なにとぞご叱正をお願いいたします。

インド出身ラマヌジャンは、ヨーロッパ数学の知識が乏しい中で、独自の発想から数学の研究に取り組んだ人でした。当時の有力な数学者ハーディ(1877-1947)の紹介で、1914年にイギリスに渡り、ケンブリッジ大学で研究する機会を得ましたが、そこでの研究生活は決して安穏なものではなかったらしいのです。第一次世界大戦下の悪環境もわざわいして、結局ラマヌジャンは当地で健康を害し、5年後にインドに戻って間もなく、30代前半の若さで生涯を閉じます。

そのケンブリッジ大学でのラマヌジャンの不幸には、上の黒川氏著書によれば、彼の紹介者であったはずの、イギリス出身の数学者ハーディの態度や評価が大きく関与していました。ハーディは結局、ラマヌジャンの力や研究を適切に評価せず、数々の意地の悪い対応をしたというのです。そこには、ラマヌジャンがヨーロッパ数学の「複素関数論」なるものの知識をもたずに研究していたことが、大きく関係していたそうです。

ラマヌジャンがハーディに送った数学に関するある手紙に対して、ハーディは、およそ次のようなことばで非難をしています。「ラマヌジャンの説から学ぶことは何もないし、何の可能性も見出せない。根本から、まともにやってもらわなければ。優れた数学者は、こんな盗賊や詐欺師のようないかがわしい手を使うのとちがって、常識があるものだ」(同書p.48の英文の大意をブログ著者の私が翻訳)。

黒川氏は、ハーディがこの辛辣な言葉遣いを平気で行うことに驚かされると述べつつ、そこに、数学の「専門家」がもつ、「他人を疑ってかかるのが当然、という体質」を指摘しています。「複素関数論」の知識がないため、別の道を通ってなんとかしようとしたラマヌジャンのやりかた、その「無知」を突いてくる。そこにあったのが、「こんなことも知らないで数学をやっているなんて、許せない!」という、ある意味で“本気”の怒りだったのか、または、その「無知」につけこみ“自分たち”と差別化し身を守ろうとした、したたかな〈ギルド体質〉だったのかは、私にはわかりません。しかし、いずれにせよ、それが何らかの“狭量”によるものだったことは、間違いないでしょう。

黒川氏は、このあたりの「専門家」の問題について、かなり明確なメッセージを発信しています。

専門家は所詮ある時期の研究レベルの専門家ですので、当然、時代に縛られます。さらに、専門家は自信家ですので、自分の知らないことやできないことを他人がやれるということを認めたくない人種です。専門家の評価ほど真実から遠ざかっているものも少ないでしょう。(同書p.20)

ここには、「専門家」が陥りがちな基本的な問題が指摘されていますが、その自信や保身に起因する問題のほかに、ここでは「時代に縛られる」という重要なポイントも挙げられています。

例を、本ブログらしく、世阿弥や能楽の研究史に取ってみます。

1970年代頃までは、能楽研究といえば、世阿弥の能楽論にかなりの注目が集まっていました。とくに、世阿弥の論から敷衍される、藝道、その他様々なものの修得・修業(修行)・教育という観点、ひいては人生を生きることの心構えという観点が重視されていたように思います。世阿弥の論は基本的に真剣です。その真剣さの内実がどんなものであったかに私は取り組んでいるのですが、その「証明」結果が出ないまでも、「予想」として真剣だと感じる人は少なくなかったと思います。そして、誰でも世阿弥の論のその真剣さを、有用なものとして活かす可能性があると見られていました。したがって、学問としても、国文学のほかに、哲学・美学・倫理学、思想・宗教研究、教育研究など、様々な分野・領域で研究が可能だったのです。

しかし1980年代に入る頃から、国文学の当時の若手の人たちも含めて、中心テーマは能の作品研究へとシフトしていきました。作品研究にはまた別の価値があることはもちろんですが、その時代傾向には、真剣な“思想”や“前向きな人生”に、何かしら疲れ、あまり好意的に見ることができないような、あるいは、その真剣さを第三者的に皮肉に眺める雰囲気もあったように思います。前の時代の世阿弥能楽論への人気には、戦後における、戦前への反省や、前向きに社会を建設していこうという人々の姿勢も無関係ではなかったと私は考えていますが、「ドッチラケ(しらける)」の流行語などとともに、真剣さが無価値化される力が、80年代に入る頃からはたらいたと思います(日本における流行語の威力はもの凄いものがあります)。したがって、“真面目で小難しい”能楽論より、“見てわかる、何かを感じられる舞台”、すなわち修行”の軸が“享楽”の軸へと、取って代わられたのです。繰り返しことわっておきますと、作品研究には独自の価値があると思いますが、こうして、世阿弥能楽論研究は、下火になってゆきます。もちろん以上がすべてではありませんが、このようないきさつもあったと、私は考えています。

しかも一方、国文学の世界では、20世紀の後半、かつてよりも伝本研究に注目が集まり、和文にかぎってですが(と私は考えます。漢文は別です)、細かい原本対照・校訂が進み、それまで無名だった文献にも研究のメスが入りました。かつては、言ってみれば有名古典の「『源氏物語』における紫上の人物造形」などといったテーマが、大した伝本比較もなしに行われても、ある程度許されていました。それが、『源氏物語』といえば、中世以降の『源氏物語』注釈を見なければ駄目、それらの善本や質の高い校訂を用いなければ駄目、この人の論文参照は必須、など、ちょっと離れたことに注目していると、壁が高くて手が出せない情況が生じてきました。「専門家」の出番です。「この伝本も知らないのか!」という「ダメ出し」が飛び交うようになり、「これはね、この伝本とこの伝本を見ればだいたい大丈夫ですよ。この本(伝本)は所蔵者がなかなか見せてくれなくてね……」など、〈専門解説者〉が現れるようになりました。こうやって、国文学の〈縦割り化〉〈ギルド化〉が進みます。

私は今でも忘れません。学生だった頃、注釈がない能の作品を読む授業で演習の担当をしたときに、『古今和歌集』の和歌が踏まえられていたので、その旨の注を付けたところ、先輩から、「これはね、『古今和歌集』そのものから引っぱってくるんじゃないよ。中世の『古今和歌集聞書三流抄』や『毘沙門堂本古今集注』を見なくては駄目」と、親切な(アドバイスとしては100%善意からの)アドバイスを頂戴しました。――――私は知っていました、それらの注釈があることを。しかし、「どうしてまず最初に『古今和歌集』を引いてきてはいけないんだろう?」という疑問は消えませんでした。しかし、当時、それをアティキュレート(明言)してはいけなかったのです。〈禁句〉であり〈見える地雷〉だったのです。ましてや、「そちらが大本(おおもと)なのではありませんか?」などと言おうものなら、「生意気だ」「あなたはまだ勉強が足りない。中世がわかってない」「そんなものまで引いたらスペースが無駄、資料が多ければいいってもんじゃない」等々、周囲のいろいろな“反響”があったに違いありません。

このような情況でしたから、ましてや、国文学以外の分野の研究者が世阿弥能楽論や能の作品を用いて何かを論ずることは、やりにくくなっていきました。そういう論文に対して、国文学の「専門家」から、「こんな杜撰な資料の引き方をして」「もう今の時代は、哲学や美学畑の人にはレベルの高い研究は無理だよね」に類する評価が行われる場に、私はたびたび居合わせました。同じ人文学の中でさえ、「専門家」の視野と度量はどんどん狭くなっていき、「専門家」でない人にとっての壁は、どんどん高く、厚くなっていきます。国文学に海外の研究者がかなり参加するようになった今でも、そういう風潮はまだまだ残っているのです。そんな場面に時折出くわします。

以上はラマヌジャンの話そのものとはケースが違いますが、大筋としては、「専門家」と「時代性」に関する、同類の問題だと思います。思考にしても、作業にしても、「四角い所を丸く掃く」のがよいわけはありませんが、人には限界があります。“わかってはいてもその限界のために” 、あるいは “地盤が全く異なるために”、部分的に問題が生じることに対しては、広い心をもって、独自の着想や発想の素晴らしさや、その観点・方法論ならではの有用性に、目を向けることが必要だと私は思います。そもそも、一定以上に大きなテーマというのは、本来素朴なものです。――「世阿弥はなぜあんなに真剣に能楽論を書いたのだろう」などと。全く素人的なのです。私は、こういう「素人感覚」を大切にしています。私が担当させていただく講座受講者などの方で、熱心に私に話しかけてくださる方々が時々いらっしゃいますが、そういう方々とは、そういう所でつながっているように思います。それは「このテクストのどの伝本のどこぞの字がどうなっているか」などの専門的なこととは全く違います。このような専門的な問題が重要でないとは言いませんが、それも、結局そういう素人的な疑問のためにやっているのでなければ、あまり意味がないように、私は思ってしまいます。どんな専門家でも最初は「素人」です(それを忘れている、または認めたくない「専門家」がどれほど多いことか)。「素人」は「専門家」の下に見られやすい概念ですが、ほんとうは「素人」のほうが広く、ある意味偉い。それが入口だからです。ある学者が学問の入口に立った「素人」の時に、(1) どのくらいその人の視野が広く(またはその可能性をもっており)、(2) 素朴な(「知識」「常識」にとらわれない)問いかけを持っているか、で、学問の程度は決まってしまうようにも思います。世阿弥も「大の内には小あり。小の内には大なし」と言っています(本ブログの前回記事)。「大」が素人、「小」が専門。ああそういえば、「初心を忘るべからず」というのもありました(『花鏡』奥段等)。“最初の地点に立った時の状態を忘れるな”です。最初の地点は、不馴れでプリミティブでもあり、一方でその感覚は新鮮。――――ですから学者・研究者も、お互いに限界がある者同士、良い点を摂り入れて、あとは後人が手直ししていってもよいではありませんか、と言いたくなるのですが、そのような発言が、どこまで実際、受け容れられるのか……。ただし黒川氏は「アマチュア的発想は学問を再生させるためには必須のものです」とも述べています(同書p.18)。黒川氏は長年東京工業大学に勤務なさった方だそうですが(最近定年退職された由)、そのような「専門家」に囲まれた環境にあった方からこのようなことばをうかがえることには、たいへん元気づけられます。

ラマヌジャンの話に戻りますと、彼はハーディに、数学に関する手紙やノートを大量に送ったそうです。しかしその「情報の流れ」は「ラマヌジャンからハーディへと一方通行になってい」たとのこと(同書p.49)。片思いで無駄であることを「予想」しつつメールや手紙を送り続け、相手からは一向に返事が返ってこない――こう言い換えれば身に多少の覚えも……。冗談はともかく、こんな淋しい情況が続いたら、人間まいってしまいます。ケンブリッジでラマヌジャンは、そのような思いを抱えていたのかもしれず、戦争ばかりでなくそのことも、あるいは彼の間もない死につながっているのかもしれません。しかしいずれにしても、それでも熱心に手紙やノートを送り続けるラマヌジャンの一途さ、数学への熱意、人間という存在を素朴に信頼しようとする心というものに、まったく門外の、時代も環境も違う私がおこがましいのですが、学問に対する一人の人の魅力のいくばくかばかりは、感じ取ることができるように思います。

 

この黒川氏の著書に関しては、ほかにも多少書きたいことがありますが、それはまた別の記事で。

最後に、黒川信重氏には面識がありませんが、このようなご本をお書きになった黒川氏、そしてこのご著書に価値を見出し私に紹介してくださった若い数学者に、謝辞を述べたいと思います。

大きなる形木より入たる能は……


世阿弥の藝論『花鏡』に次の文があります。

そうじて、能は、大きなる形木((かたぎ)より入たる能は、細かなる方(かた)へも行くべし。小さき形木より育ちたる能は、大なる方へは左右(さう)なく行くまじき也。大の内には小あり。小の内には大なし。よくよく工夫すべし。大小にわたるは、広き能なるべし。「大寒の氷、小寒に解く」と云々。

【訳】 おしなべて、藝というものは、大きい基本形から入った藝は、細かい方面にも行き届くことができる。(しかし)小さい基本形から育った藝は、大きな方面へは決して行きわたらないものだ。「大」の中には「小」がある。(しかし)「小」の中には「大」はない。(このことを)よくよく実地で追究するがよい。「大」にも「小」にも行きわたるのは「広き」藝にちがいない。「大寒の氷が、小寒に解ける」と言うではないか。

(『花鏡』事書第5条「浅深之事」)

細かなる」能(=細々とした具体的・説明的な謡や所作による藝)は、世阿弥の前半生までの大和猿楽ならではの藝風でした。劇中で何が行われているのか、その登場者はどういう者で、劇中で何をしているのか(何のためのどのような言動をしているのか)が鑑賞者によくわかるように演じること、それを通して、この世に煩悩を残す亡霊やあでやかな女藝能者など、それぞれの役柄の特徴を、十分に表現することを目指しました。世阿弥の父観阿弥も、そのような藝で一世を風靡したのです。

しかし観阿弥没後、近江猿楽の犬王(足利義満時代後半期)と田楽新座の増阿弥(足利義持時代)という大きなライバルの活躍がおそらくきっかけとなって、世阿弥は自座の方針を180度転換し、「細かなる能」とは対照的な「大様なる能」を、身に付けるべき藝の基本と位置付けてゆきます。具体的には、めでたい神能(《弓八幡》《高砂》《鵜羽》などの祝言脇能)の「大様なる」藝(個々の藝の十全の細かさよりも大筋の流れや舞台全体から感じられる雰囲気を大切にした藝)を、藝の本来的な在りかた(「能の本様」)だと新しく規定します。

  • たとえば、今がシーズンのフィギュアスケートの動きは、どのような人物の、何のための動作かが、具体的にわからない動きが多いものです。中には、たとえば「カルメン」の登場者やそれに合った動きが表現されることもありますが、フィギュアスケートの動きは、ジャンプやステップなどの技術と、動きの美しさが全体としてよく構成され、「凄い!」「綺麗だ」「流れがよい」などの印象を鑑賞者に与えることができれば、誰の、何のための、何をしている動作なのかがわからなくても、まったくかまいません。
  • しかし、世阿弥の若年時以前の大和猿楽では、具体的な「物まね」の藝があたりまえでしたから、“いったい誰の?”-“何をしている?”-“何に対するどんな思いから?”などが鑑賞者によくわかることが、大切にされていました。ところが、それとは全く違った藝で足利将軍家周りの評価を高めたのが、近江猿楽の犬王道阿弥です。犬王の藝は、まさに、上のフィギュアスケートのような類の藝でした。一つ一つの動きが一体何を表しているのかわからない、しかし全体の「幽玄」の美しさを十分に発揮した「天女舞」などが、その得意藝だったのです。

また世阿弥はそのために、“舞・歌の二曲(技術的な型があり、応用が利く藝の基本形)を、個々の役柄の細々した物まねの藝よりも前に修得すべし”という習道理論も築いてゆきます(『至花道』など)。足利義満時代から足利義持時代に移行する頃(応永10年代半ば、1405-1410年前後)からの10年余りの間の世阿弥には、このように、若年時の大和猿楽の常識を大転換する、大きな変化が起きたと、私は考えています。[注1]

この『花鏡』の論は、そのような情況下で著されたと私は推測しています。時期は、足利義持時代の中頃(応永20年代半ば)と見て大過ないでしょう。この条を読むと、世阿弥は藝のあらゆるレベルで、「大」(大様なる)を「小」(細かなる)に先行させることが大切だと考えていたのだと思わせられます。上の引用文は、『花鏡』「浅深之事」の最後の段にあたりますが、「大の内には小あり」云々の説は、能の藝にかぎらず、私たちがあらゆることに敷衍して考えるヒントを与えてくれています。

“世阿弥の藝論は、能楽の藝に即して読むべし(世阿弥の論は何よりもまず演劇論・藝能論である)”が、およそ1980年代以降の(国文学を中心とした)専門的能楽研究の主流の傾向ですが、私は折に触れ、世阿弥の論が、能楽に限らない様々なことがらの参考になると実感させられます。この頃以降の世阿弥の論が禅や道学(程朱学)の思想や発想をヒントに着想したものであるからには、本質的にそのようなものだと、学術的にも言えると思うのですが(このあたりは難しいのでまた機会があれば別に申します)、少なくとも、1970年代頃までの世阿弥能楽論研究に顕著であった、能楽という枠にとらわれずに(たとえば一般的な教育の参考としても)読みうるという経験的な見かたは、今でも有効だと考えています。

これを、学問という観点から考えて、次回の記事に続けて書いてみたいことがありますが、今回の記事では、以下、上の「大寒の氷、小寒に解く」について、少々注釈をしておきます。

これは、世阿弥の藝論にしか見えないことばです。ただ、他の文献にも見える似た(というか、逆の)諺として、「小寒の氷、大寒に解く」というものがあります。二十四節気の「小寒」(太陽暦の1月上旬)と「大寒」(同1月下旬)。“大寒が一年で最も寒い時期なのに、なぜか小寒(大寒の次に寒い時期)に張った氷が、大寒に解けることがある(大寒のほうが暖かい場合がある)”という意味で、何事もセオリーどおりには行かないのだ、というようなことを表すために使った諺ではないかと思います。

では、世阿弥が引く「大寒の氷、小寒に解く」とは、どういう意味でしょうか。私には、解釈の可能性が3つ考えられます。

1、 “最も寒い時期の氷が、次に寒い時期に解けるのがあたりまえであって、その逆ではない”の意味。あたりまえのことがあたりまえに起こることを確認したことば。

2、 季節的には、小寒のほうが大寒よりも先に来るはずなので、“大寒に入ってからの氷が、小寒に解けた!! こんなことが??”の意味。“普通では想像しえない、不可思議なことが起こった!”という驚嘆・驚愕(きょうがく)のことば。世阿弥の『九位』に引かれる禅のことば「新羅夜半、日頭明らかなり」(真夜中に日が上る!)、「西から上ったお日さまが、東へ沈む~」のようなこと。

3、2と同じく、小寒と大寒の時期の前後をふまえて、“いくら小寒が大寒より温度が高いからといって、まだ張ってもいない大寒の氷が、小寒のうちに解けるはずがない”の意味。ありえない順序(序列)錯誤の愚かしさを指摘したことば。

このうち、世阿弥の上の文脈にあてはまるのは、1か3でしょう。3の場合は、“先にあるはずの大きいもの(「大きなる形木」)を先にしてこそ、小さく細かい方面へも行き届くのだ”という意味。しかしこの引用文と「大」「小」の順序が入れ替わってしまい、やや不自然です。ここはひとまず1の意味と見て、“最も寒い時の氷のほうが大きいのであって、小寒の小さな氷はその中にすっぽり入ってしまう。やはり「大きなる形木」から入るべきだ”という意味だと解しておきたいと思います。

【注】

1 拙稿「大様なる能と世阿弥の脇能」、『藝能史研究』198、2012.7。

 

「おみせで まっかなトマルを みた」の謎


前々回から世阿弥の「花」について書いていますが、今回は、連休ですのでちょっとお休みして、特別記事とさせていただきます。

”ゴールデンウィーク企画”の短篇シナリオです。

「おみせで まっかなトマルを みた」という謎の文、どのように解釈したらよいでしょうか?

世阿弥とは直接関係なさそうですが、とりあえずは、軽い気持ちで読んでいただければ幸いです。

(注:これはフィクションです。実在の人物・団体や出来事とは関係がありません。)

◇◇◇◇◇

今から700年も未来のお話です。

――西暦2713年のある日、日本のある家のお蔵から古そうなノート群が発見されました。

どう見ても、現代のものではないらしいと思ったその家の人は、さっそく鑑定を依頼します。

結果は、紙の質からして、どうやら20世紀末から21世紀前半頃のものらしい、ということでした。

その中の1ページに、こんな文が書いてありました。

「おみせで まっかなトマルを みた」。

一見してすぐには意味がわかりません。

その家の人は、これがどういう意味なのかを、国文学の研究者に尋ねました。

依頼を受けた学科長のA教授は、研究室でB准教授たちと一緒に、この文について議論を始めます。

「おみせで」「まっかな」「みた」はわかりますが、よくわからないのは「トマル」です。これについて、研究者の間で説が分かれました。

――

B:なんだ、また君たちも来ているのか。

C:ええ、たまたまそこにいたものですから。「トマル」ではなんだか意味が通りませんが……。何か違うことばの書き誤りでは?

A:「書き誤り」と言うのはどうかね。君は「トマル」ということばを知らないのか?

C:「トマル」という古語があったことは知っています。

A:なんだ、知っているんじゃないか。みんなに言っておくが、「トマル」は当時の動詞で”stop”という意味らしい。「止まる」と書き、日本ではそれまでずっと長く使われてきた動詞だ。600-800年前の文献はあまり伝わらないが、少ない用例を見つけた研究者の論文が出ている。江戸時代以前の文献には用例が沢山ある。「トマル」という言葉があったのだから「トマル」だろう。

C:簡単に「書き誤り」と認められないのはわかりますが、「トマル」とカタカナで書いてあることも気になりますね。当時カタカナは、ふつう外来語の表記に使われるものだったとされています。でも「止まる」は外来語ではないでしょう?

A:しかし「トマル」と書いてあるのだから「止まる」と見るべきだ。ほかに「トマル」という言葉の当時の用例はないだろう?

C:これは果物の「トメイト」のことだとは考えられないでしょうか? お店で売っているものらしいこと、「まっか」というのが赤色を意味していることからです。それから、これは仮名だけで書いてありますから、大人ではなくて当時の子供が書いた可能性が考えられる。子供が店先で見るものとして「トメイト」はありうるものだと思いますが。

A:しかし「トメイト」とは書いていない、「トマル」じゃないか。当時「トメイト」を「トマル」と言った例でもあるのか?

(A、かかってきた電話に出る)

C:(周囲の研究者に向かって)「トメイト」は英語表記では”tomato”ですから。「トマ」の所は近いですね。それにカタカナの「ル」と「ト」を書き間違えたとすれば「トマト」となります。そうすると、当時の日本人が「トマト」と読んだことは考えられなくもありませんね。残念ながら、当時の文書で今伝わっているものが少ないのですが。

D:Cさんがそう考えるには、何か思い当たることでもあるんですか?

C:ええ。昔読んだ国語学の論文に、当時の日本人は英語発音が苦手で、「ジャパニーズ・イングリッシュ」という俗語があったことが考察されたものがあるんです。当時の少ない資料を調査した好論でした。その論文の内容を思い出して、「トメイト」を「トマト」と言ったことも、あながちないわけではないと思ったんですよ。

E:「トマト」なんて、当時の日本人はそんなに面白い英語の発音をしてたのかな、ハハハ。

D:いやそうともかぎらないんじゃないの? 別のヨーロッパ言語からの翻訳かもしれないし。たとえばイタリア語とか。

C:どちらにしても、「トメイト」と「トマト」は、発音としてそれほど遠いものではないということですよ。

F:ここに気になることを見つけました。(とIT機器を差し出す)

C:どれどれ。

F:750年前の資料です。当時、「トメイト」はブリティッシュ・イングリッシュでは「トマート」と発音したことが書かれています。

C:興味深いですね。実に興味深い。

A:(電話を切って)君たち、まだやってるのか。どこに「トマト」と書いてある? 「トマル」と書いてあるんだ。ほかに「トマト」と書いた伝本でもあるのか? 「トマル」とあるのだから、「止まる」の可能性を第一に考えるべきだろう。

C:どうでしょうか。「止まる」は動詞でしょう。動詞の直後に「を」という助詞が来るのは、当時の日本語の語法としては、いささか不自然ですね。当時の日本語の「を」の前にはふつう名詞が来るはずです。国語学ではそういう見解となっています。

D:へえー、Cさんって、国語学にも詳しいんっすね。

C:実は、学生時代には国語学にも関心がありましてね。国語学の当時の教授の授業には、いつも、わくわくしました。

A:とにかく、問題を複雑にする前に、原文の資料をよく見たほうがいい。まずは実証してからだよ。「トマト」なんて用例はないんだから、実証できないだろう?

B:A先生、こう考えてはどうでしょう? 当時のカタカナは、ふつうは外来語を表すものですが、その言葉を強調する時にも、特別にカタカナ表記することがあったようです。そういう実例が挙がっています。だからこれは何か特別な言葉なのではないでしょうか。「とまる」とか「トマル」、または「止まる」と赤い字で書いた注意書きのふだか何かをお店で見たという意味では? 「止まる」という引用文だったら、「を」につなげることも可能ですし。

A:おお、いいことを言うね。それならありうるだろう。うん、そう判断していいのではないかな。

C:そういう光景はなかなか想像しにくいのではないでしょうか。「トマト」が「トメイト」だとすれば、お店にあって子供が見るものとしては、非常に想定しやすいものですよ。それに、Fさんのおっしゃることからも、当時の日本人の発音として「トマト」はありうると思うのですが。

A:「トマト」の当時の日本の用例資料がないと言ってるんだ。君はありもしないことばかり考える妄想家だね。実例をきちんと検討するのが、手堅い学問というものだ。現存資料を馬鹿にするのか。

C:そんなことはありません。でも、人間の書写することには間違いもありますし、用例が現存資料に見当たらないからといって、「トマト」ということばがなかった、ということの証明にはなりません。

B:A先生、想像しにくいということで申し上げれば、あるいは、「止まれ」という命令形の読み間違いや書き間違いと考えてもよいかと思いますが。何か危ないものがあるから「止まれ」という意味では?

A:うん、そうかもしれんな。その程度のことなら可能性を考えてもいいだろう。

(Cに向かって) 国語学まで風呂敷を広げる前に、目の前にある原文をきちんと読んだらどうだ。君は国文学だろう。

B:Cさんは以前も「実証」を批判する文章を書いていました。

(注:「実証」とは、”いつ、何があったか”を、歴史資料を証拠にして述べること。たとえば、「永和四年」(1378)という年記のある日記類に、世阿弥のことを「今年十六歳」と書いてあったとすると、それを証拠に、”世阿弥は貞治三年(1363)生まれだ”と考えること。)

E:ハハハ、だからいつまでも昇格できないんだよ。

A:これまでも、甲先生も乙先生も、実証的なきちんとした研究を積み重ねて、大きな成果を上げてきた。君にはその偉大さがわかっていないんだろう。

C:甲先生や乙先生の研究の価値はわかっているつもりです。「実証」に意味がないと言っているのではなく、「実証」ではない見かたも必要かと……

A:(さえぎって)とにかく、B君がいい案を出してくれたから、「止まる」でだいたい行けることがわかった。それじゃ、依頼者に回答を出すから、B君、原稿を書いてくれないか。君にも謝礼の一部を渡すことにしよう。

B:ありがとうございます。

C・D・F:……

(Aの研究室を出て)

D:Cさん、いいんっすか、これで。

C:まあ、D君、落ち着いて。こちらはこちらで考えてみましょう。

F:私も何かわかりましたらすぐにお伝えします。

C:ぜひお願いします。それでは行きましょうか、D君。

◇◇◇◇◇

「おみせで まっかなトマルを みた」というこの謎の文、いったいどう読めばよいでしょうか。

依頼者にどのように回答すればよいか、よい案をお考えください。

この企画の次の記事には、私の考えも書かせていただきます。

世阿弥の幼名「藤若」と藝論の「花」


*ブログをこちらに引っ越しました。いずれ旧記事もすべてこちらに移ります。

すみませんがしばらくご面倒をおかけします。旧ブログはこちらです⇒link:「世阿弥の思想」

4月3日から、京都の相国寺承天閣美術館「室町の花 観世宗家展」が開催されています。それにちなんで、観世宗家・観世文庫に蔵されている世阿弥自筆の書物に関係の深いことを、シリーズで書かせていただいています。

◇◇◇◇◇

先日、”世阿弥の幼名「藤若」と藝論の「花」”の題で記事を公開しましたが、内容に誤りを見つけました。お読みくださいました皆様にお詫び申し上げます。書き直させていただき、新たに公開させていただきました。

前回の記事では、世阿弥の周囲に咲いていた、あるいは飾られていた、実際の花について書きました。前回に書いたことを含めて、実際の花と世阿弥の藝論の「花」とのつながりは、ある程度、これまでに指摘する人も出ています。

しかし、それはそれとして、世阿弥の「花」の論と、実際の「花」との関係については、実はもっと慎重に見きわめていかなければならないと、私は考えています。

庭の花、花瓶の花は、当時と今日とでまったく同じではないにしても、私たちには比較的想像しやすいものです。だからこそ、世阿弥の周辺にそういうものがあった、と見ると、つい簡単に、世阿弥の藝論の「花」と結び付けてしまいやすい。実はそこが落とし穴です。

そういえば、世阿弥の幼名は「藤若」でした。名前に植物の名が付いています。世阿弥がこの名を持っていたことは、はたして「花」の論にかかわっているのでしょうか。

世阿弥は少年の時、当代一の知識人で、連歌の社会的な地位を引き上げた人物としても有名な二条良基(にじょうよしもと、1320-1388)に、この幼名を付けてもらいました(昔の男性は、今と違って一生に何度も名前を変えたのです)。良基の属した二条家は、藤原氏の中でも摂政・関白に任じられる資格のある名家「五摂家(ごせっけ)」の一つで、その藤原氏代表とも言える人物から名前の一字が入った「若」という名をもらったことは、世阿弥にとっては大きな名誉であったはずです。そして、そこに「藤」という花の名がある……そこから当時の貴人の庭、藤原氏ゆかりの場所に咲き乱れた藤の花を思い浮かべることは、難しくありません。しかし……。

世阿弥にこの名前を付けるにあたって、良基は次の和歌を扇に書いて藤若に与えているのです。

松が枝(え)の 藤の若葉に 千歳まで かかれとてこそ 名づけそめしか

【訳】 松の枝に蔓(つる)がかかっている藤の若葉、その若葉のように若々しいこの児(ちご)が、長寿の松のように千年もの間そのままであり続けてほしいという願いを込めたからこそ、「藤若」という名を付けたのだ。

(訳の文責は管理者。以下も同じです)

「かかれ」は掛詞(かけことば)で、”藤の若葉が松の枝に掛かる”と、”斯かれ(=斯くあれ=このようであってほしい)”を掛けています。

昔の少年の名には「○○若」というものが多くありました。その代表は、源義経の幼名「牛若」でしょうか。良基はその「○○若」という名に「葉」を掛けたのです。

ちなみにその3年後、世阿弥が16歳の頃、その藤の若葉を、世阿弥は良基などと座をともにした時の連歌に詠んでいます。

連歌は、複数の人たちによって一つの座を囲んで行われる文藝で、ある人が和歌の五七五の句を詠むと、別の人がその五七五に合った七七の句を付けて一首の短歌の形にし、また別の人が、その七七に合った別の五七五の句を付け、別の一首の短歌の形にし……とういことを続ける一種の遊びです。要するに、一首の和歌の上の句と下の句を別の人が作るのですね。それでいかに気の利いた短歌ができるか、それを楽しむわけです。鎌倉時代末期の頃から、この連歌が盛んに行われていました。そして、この時の連歌の会で世阿弥が詠んだ2句が遺っているのですが、それを連歌の第一人者だった良基に賞賛されています。藤の若葉は、次の連歌のやりとりに出てきます。

ある人が次の五七五の句を詠みました。

聞く人ぞ 心そらなる ほととぎす

【訳】 空でほととぎすが上げる一声を聞こうと、人々はそのことばかりに気を取られて、ほかのことは考えられない。「そらなる」(空にいる/うつろである)のはほととぎすでなく、むしろその声を聞く人々のうつろな心のほうだ。

それに世阿弥は、次の七七の句を付けたのです。

しげる若葉は ただ松の色

【訳】 ほととぎすの一声をひとえに待っている人々の眼前に茂っている若葉の青々とした色は松の葉ではないけれど、松の葉の色そのものだ。千年もの永い時を経て生命をつなぐ、めでたい常葉の色なのだ。

実はこの文献、この連歌が書き留められたあたりに意味の通りにくい文があり、書写した時の誤りが含まれている可能性があるのですが、とりあえず、上の連歌は今伝えられていることばのとおりに解釈してみました。

「松」は松の木と”ほととぎすの声を待つ”を掛けているのでしょう。上の句に合う掛詞をうまく使っています。そして、「ただ待つ」は”ほかのことは考えられず、ただただひとえに待つ”ということ、そして「ただ松の色」は”ただただ松の葉の色と同じ=まるで松の葉の色そのものだ”と解するのが自然です。この世阿弥の句の「若葉」は”松の若葉”と解釈されることもありますが、上のように解釈すると、この「しげる若葉」は、松とは別の植物の葉を指しているとしか読めません。それが何なのかはっきりと示されていませんが、私は先の良基の和歌と同じ、藤の葉ではないかと推測します。またもしかすると、その場にいた良基や世阿弥の眼前にも、藤の若葉が青々と茂っていたのかもしれないと。

先に引用した良基の和歌には「藤の若葉」と「松」が一緒に詠み込まれていますが、上の世阿弥の連歌の句は、それを意識してか、同じように藤の若葉と松を一句に詠み込んだのではないかと思われるのです。

ほととぎすは、後代の俳句の季語でも知られるように、初夏の風物です。ほととぎすの一声は夏の到来を告げる一声だと、昔の和歌に親しんだ人々は考えました。だからこそ、ほととぎすが一声を上げるのを、つまり夏という季節が到来するのを、今か今かと、ほかの何も考えられず、一心に待ち続けるのです。季節の移り変わりに気づくことを何より大切にした、それを風流だと見なした人々でしたから。……今でも、桜のいちばんの開花情報に敏感な方、そのような方の気持ちは、この人々に近いと言えるかもしれません。

そして、ほととぎすと同じく、藤の若葉も初夏の風物です。

この連歌を世阿弥が詠んだのは、永和4年(1378)の4月のことらしいのですが、旧暦の4月は初夏ですから、ほととぎすや藤の若葉にふさわしい季節だと言えます。

そして、先の良基の和歌も、同じ藤の若葉を詠んだ、初夏の歌だと言えます。

いっぽう藤の花は、晩春の風物です。藤の若葉の時期とそれほど離れてはいませんが、決して一緒ではありません。実際には、若葉が茂ってから藤の花が咲くこともありますが、和歌連歌の世界は必ずしも実際にあること、起こることをそのまま反映するのではなく、実際の世界を微妙に風流に作り変えた、独自の世界を築いているのです。

そうなると、その良基の和歌に紫色の藤の花のイメージを見ることは難しいと言わざるをえません。世阿弥の「花」の論に、世阿弥の幼名が反映されているのではないかという想像は、想像としては楽しいかもしれませんが、ほんとうにそうかというと、疑問を感じざるをえないのです。「藤若」は一見、花に縁が深そうな名前ではありますが、世阿弥の「花」の論に結び付けるのは難しそうです。

前回の記事に書きました庭の花や花瓶の花は、上の藤の若葉とは違ってたしかに花ですし、世阿弥が藝論を著す時にそれらを思い起こしたことは明らかですが、その実際の花のイメージがどれほど世阿弥の「花」の論の形成をうながしたかというと、やはりそう簡単に結び付けられないと、私は考えています。実際の花は花そのものであって、「花」ということばや概念ではないのです。世阿弥が藝論を書くにあたって、どうして「花」の概念を思いつくことができたかについては、庭の花や花瓶の花を簡単に結び付けずに、慎重に考える必要があります。今日の私たちにとって、庭の花や花瓶の花はイメージしやすいものです。しかし私たちにとっては想像しやすいとしても、当時の世阿弥周辺の人たちにとって、世界がそのように見えていたか、それだけであったかどうかはわからないのです。

当時の和歌や連歌に親しんだ人たちは、実際の世界と、和歌や連歌の独自に築かれた世界、この二つの世界を行き来していますそしてそのどちらの世界にも、花はあることに注意しなければなりません。

世阿弥の藝論の「花」の概念について考えるとき、実際の世界だけでなく、和歌や連歌の世界も覗(のぞ)いてみなくてはならないのです。世阿弥は、上の話からも明らかなように、和歌や連歌の世界にも親しんでいるからです。和歌や連歌の世界は実際の世界ともちろんつながりを持っていますが、むしろ私は、世阿弥の「花」の論の形成に大きな影響を与えているのは、和歌や連歌の世界の「花」ではないかと考えています。

次回のこのシリーズでは、和歌や連歌の世界の「花」について、さらに掘り下げてみたいと思います。

なお、『花伝』別紙口伝の世阿弥自筆本は、観世文庫アーカイブのページから検索して閲覧することができます。

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また、本記事のリンク先の写真等の情報の複製等につきましては、リンク先のご指示に従ってください。無断複製禁止のページが多いと思いますので、引用につきましては十分にご注意ください。

世阿弥の「花」はどこから?


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4月3日から、京都の相国寺承天閣美術館「室町の花 観世宗家展」が開催されます。それにちなんで、観世宗家・観世文庫に蔵されている世阿弥自筆の書物に関係の深いことを、シリーズで書いていくことにします。

世阿弥のことばが、どのような立場状況にあっても通じ、600年以上の年月を経た今日の私たちにもうったえかけるものがあることは感銘を受けるところです。けれども世阿弥の当時、社会の仕組みや状況、もののみかたが今日と大きく違っていたのは言うまでもありません。世阿弥はその中で能を作り、能を演じ、藝論を書いていました。そこで世阿弥が身を置いていたのがどのような時であり場であったか、なぜ世阿弥がそのようなことを言ったのかに思いを馳せたいと思います。もちろんそれがすべてすっきり見えるはずはありませんが、わずかずつでも世阿弥の立場に近づいていく、その姿勢を大切にしたいと思います。

そのようにして読む世阿弥の藝論は、背景をひとまず横に置いて読んだ時の感触を損なうものではなく、むしろさらに大きな感銘がそこに待っていると、私は思っています。

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世阿弥の藝論の中で最も重要な概念とも言える「花」ですが、世阿弥はどこから、能の藝を「花」にたとえることを思いついたのでしょうか。

『花伝』別紙口伝の第1条は次のように書き出されています。

この口伝に花を知るといふ事。仮令(けんりょう)、花の咲くを見て、よろづに花とたとへし理(ことはり)をわきまふべし。

そもそも花といふに、万木千草において四季折節に咲く物なれば、その時を得てめづらしきゆゑに、もてあそぶなり。能も、人の心にめづらしきと見るところ、すなわち、面白き心なり。花と、面白きと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり。

【訳】 この口伝で肝心な「花を知る」ということについて。おおよそ、花がどんなものであるかを知るには、実際に花が咲くのを見て、いろいろな世界で、何かが映える様子を花に譬えてきた道理を納得するがよい。

まず花というのは、どのような木や草でも四季のその折々に咲くものだから、機を得て開くその時にはっとさせられる思いのために、賞翫するのである。能も、鑑賞する人の心中で、はっとさせられたと思うところが、これすなわち、面白いということなのだ。つまり、花と、面白いということと、はっとさせられるということ、この三つは同じことなのだ。

(観世文庫蔵、世阿弥自筆の本文を、管理者が校訂しました。現代語訳の文責も管理者)

「花の咲くを見て」「万木千草において四季折節に咲く」と言っていますから、ほんものの花がイメージされていることはたしかです。ただし、世阿弥が育った背景から考えれば、おそらくは、主に貴人の邸宅などに植えられた花、たとえば梅、桜、藤、菊のような花が想像されていたもので、野原のタンポポのような花は、その中には入っていなかったと思われます。

当時、貴人の邸宅にはどのような植物があったかというと、たとえば今の天皇家の先祖に当たる伏見宮の邸宅には、、今の私たちに意外なものとしてはバラ、そして七夕の飾りにも用いるナデシコ科のセンノウ(仙翁花)などが植えられていたことが明らかになっています。また、世阿弥作の能『恋重荷(こいのおもに)』は、を好んだ白河院の庭を舞台とし、その菊を育て世話する山科の荘司という老人を描いた曲です。そもそも中世の皇室には、後鳥羽天皇(1180-1239)をはじめ、を好む天皇が多く、それが天皇家の菊の紋章につながっています。『恋重荷』のように菊が植えられた皇室の庭を描く能の作品も、そのような史実がイメージされていると言えましょう。

また、世阿弥が12歳の頃から児として仕えた足利義満(1358-1408)は、自身の新しい邸宅を築き、永和4年(1378)、世阿弥15歳の頃に移り住みました。その邸宅について、室町時代の禅僧、景徐周鱗(けいじょしゅうりん、1440-1518)は、「その新しい邸宅には名の通った花を数多く植えたので、当時の人は『花の御所』と呼んだ」(「其新亭多種名花、故時人称花御所」)と言っています(『翰林葫蘆集(かんりんころしゅう)』)。今でも「室町花の御所」と伝えられるとおりです。当時の世阿弥はこのような場所に身を置いていたのです。

また、上に引用した世阿弥自筆の『花伝』別紙口伝、第1条の終わり近くには、花瓶に挿した花をイメージした次の文があります。この本は江戸時代の火事で焼失してしまった部分があり、全文は読めませんが、まずはそのまま引用してみます。

たとへ□、大所の、かざりなとに、くわひんの、かずを、そろへ、花を、つくしたらんずる、ざしきに、□□□□□□□ちゑなとを、すこすこと、たて□□□□□□□□けうなるべし。

(□は焼失し読めない部分)

これを私の推定を合わせて校訂し、現代語訳すると、だいたい次のようになると思います。

たとへば大所の飾りなどに、花瓶の数を揃へ、花を尽くしたらんずる座敷に、[     ]立ち枝などを凄々(すごすご)と立てたらんは、不興なるべし。

【訳】 たとえば貴人や将軍家の邸の会の飾りなどとして、大陸由来の麗しい花瓶の数々を揃え、花でいっぱいにしようという会席に、[花の代わりに?]高く伸びた枝などを、寒々とした感じに立てては、興ざめであろう。

これは、冥界の鬼の藝(link:以前の関連記事)ばかりを演じる役者の与える印象を、「花」が感じられない、寒々とした様子に譬えて批判したものです。「くわひん」は、当時、大陸との交流で日本にもたらされた古胴(胡銅、こどう)や茶琓(ちゃわん)等々の花瓶の高級品を指していると思われます。ちょうど世阿弥が少年の頃から、皇族、有力貴族や将軍家の邸宅で、そのような高級な花瓶に花を挿して飾り楽しむことが行われるようになったようで、当時の記録類に書き留められています。それは、花を立てた花瓶を数多く並べ、賭け事などをして楽しむ純粋な娯楽としての「花会(かかい)」であったり、七夕に、やはり高級な花瓶にセンノウ(仙翁花)をお供えの花として挿して飾る信仰行事としての「花座敷(はなざしき)」であったりしたのですが、世阿弥が上の文を書いたと見られる頃には、七夕の「花座敷」でも花自体が観賞され楽しまれるようになりつつあったことが、近年の研究で明らかにされてきています。それらの場に世阿弥が臨席したと明記した記録は見つかっていませんが、世阿弥にそのような座敷を見たり話を聞いたりした経験があったことは、上の文から明らかです。

このように、世阿弥の周囲には、さまざまな庭の花や花瓶に飾られた花がありました。「花」の論を著す時に、世阿弥はそれらの花々を思い浮かべたことでしょう。

しかし、それでは世阿弥の「花」の論は、それらの花の美しい姿が目に焼き付いていたから、あるいは花を見てその性質にふと勘づいたから形成されたのかというと、そう単純な話ではないと、私は考えています。

それでは、なぜ世阿弥は能の藝を、ほかでもない「花」にたとえたのでしょうか。この話の続きは、次の記事に書かせていただきます。

なお、『花伝』別紙口伝の世阿弥自筆本は、観世文庫アーカイブのページから検索して閲覧することができます。

続きの記事はこちら

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世阿弥の藝論の背景(2)―「花」を論じた『花伝』別紙口伝の前半と後半


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昨年の12月から今年の1月にかけて、観世宗家展が東京で開催されました。今後、京都と名古屋でも開催される模様です。それにちなんで、観世宗家・観世文庫に蔵されている世阿弥自筆の書物に関係の深いことを、シリーズで書いていくことにします。

It must be considered to distinguish Zeami’s writings and sentences in Ashikaga Yoshimochi’s (足利義持) period from the ones in Ashikaga Yoshimitsu (足利義満) ‘s; even among the sentences in one treatise.

世阿弥が足利義持の時代に著述した書物や文は、足利義満の時代に著述したものと見分けることが肝要である。一つの藝論として伝わっているものの中でも。

世阿弥のことばが、どのような立場状況にあっても通じ、600年以上の年月を経た今日の私たちにもうったえかけるものがあることは感銘を受けるところです。けれども世阿弥の当時、社会の仕組みや状況、もののみかたが今日と大きく違っていたのは言うまでもありません。世阿弥はその中で能を作り、能を演じ、藝論を書いていました。そこで世阿弥が身を置いていたのがどのような時であり場であったか、なぜ世阿弥がそのようなことを言ったのかに思いを馳せたいと思います。もちろんそれがすべてすっきり見えるはずはありませんが、わずかずつでも世阿弥の立場に近づいていく、その姿勢を大切にしたいと思います。

そのようにして読む世阿弥の藝論は、背景をひとまず横に置いて読んだ時の感触を損なうものではなく、むしろさらに大きな感銘がそこに待っていると、私は思っています。

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能に関する催しのキャッチフレーズにしばしば用いられる「花」と「幽玄」。世阿弥の藝論の中で一般に最もよく知られていることばではないでしょうか。世阿弥自筆の本が遺っている『花伝』別紙口伝は、「この口伝に花を知ること」と書き出され、世阿弥の伝書の中でもとくに「花」を詳しく説き、「花」を大切にした伝書の一つです。世阿弥の「花」とは、あえてひとことで言えば、実際の舞台での藝の出来ぐあいが素晴らしいこと、また、その素晴らしい藝を指しています。ただしこれは私が世阿弥の著述をひととおり読んでまとめたにすぎないもので、ほんとうは実際にそれを読むことによってとらえられるものだと思いますし、また、伝書を著述した時によって世阿弥の「花」に対する観点も変わっていきますから、別紙口伝さえ読めば世阿弥の「花」がすべてわかるというわけではありません。けれども、別紙口伝を著したことによって、世阿弥の「花」についての考えが大きくふくらみ、「花」がその藝論の中でゆるがぬ位地を占めるようになったことも、またそのとおりだと言えましょう。

別紙口伝を世阿弥が書き始めたのは、応永7年(1400)前後かと考えられます。応永7年は、『花伝』の中で最初に書き上げた3篇=年来稽古篇物学(ものまね)篇問答篇を弟の四郎に相伝した年です。「別紙口伝」は『花伝』の「第七」ですが、書き始められた順序からいうと4番目だったでしょう。「第七」は、相伝した順序ではないかと私は見ています。『花伝』 7篇のうち最後に相伝すべき、最奥の伝書と位置付けられたのが、この別紙口伝だということです。

別紙口伝は全8箇条から成っています。実は別紙口伝には2種類あって、観世文庫に伝わる世阿弥自筆本(「四郎本」、弟の四郎に相伝)と、世阿弥が後から書き直した別の本文(「元次本」、息子の元次に相伝、元次は元雅の前名だとされています)が伝わっていますが(元次本のほうは世阿弥自筆の伝本は伝わっていません)、2種とも8箇条です。次のとおりです。四郎本のほうの本文を引いておきました。

第1条 「この口伝に花を知ること。……」:「花」の大切さ、「花」と「面白き」と「めづらしき」は三者一体だということ。観客ははっと思わせられることを面白いと思う。それが「花」だ。

「花」の理を、この時点の世阿弥の観点から論じたもので、別紙口伝を書こうと思い立った時の世阿弥の考えの眼目がこの条に顕れていると見てよいでしょう。

第2条 「細かなる口伝にいはく、音曲・舞・はたらき、振り・ふぜい、これまた同じ心なり。……」:謡や所作のそれぞれを、とおりいっぺん、型どおりに演ずるのではなく、観客にはっと思わせる肝どころをつかんで演ずることの大切さ。

第3条 「物まねに、似せぬ位あるべし。……」:「似せよう」という意識も持たぬほど、まねる対象になりきってしまうことの大切さ。

第4条前半 「十体を得たらん為手(して)は、……」:観客にはっと思わせる藝の目新しさを感じさせることができるように、多くのレパートリーを身に付けることの大切さ。

実は、この第4条の前半までで別紙口伝はひとまず書き上げた状態となって、10年からそれ以上置いておかれたのだと私は考えています。つまり、最初の別紙口伝は4箇条からなっていて、それが書き上げられたのは応永10年(1403)頃までのこと、足利義満政権の時代だというのが私の考えです。しかもその中にも、置いておかれてから後に書き足したり書き直したりした所が一部にあると考えています。ただし、その段階の別紙口伝はいま全く伝わっていません。私の推定です。

いっぽう、次の第4条後半の「又云、十体を知らんよりは、年々去来の花を忘るべからず。……」以下は、応永15年(1408)に発足する足利義持政権の時代に入ってから、しかもだいたい応永20年前後から世阿弥が著述したというのが、私の考えです。

第4条後半 「又云ふ、十体を知らんよりは、年々去来の花を忘るべからず。……」:少年に似合う藝から老年に似合う藝まで、さまざまな年齢にふさわしい藝をいつでも演じられるようにしておくことの大切さ。

(この部分は、最初に書かれていた第4条に後から書き足したと言うべきかもしれませんが、ひとまずこちらに書いておきました。)

第5条 「能に、よろづ用心を持つべきこと。……」:いかつい強いものを演ずるときに柔らかい心を忘れず、幽玄といえるものを演ずるときに強さという理を忘れないことの大切さ。

第6条 「秘する花を知ること。秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず、となり。……」:演じかたの工夫を明かさず秘することによって「花」が生ずると知ることの大切さ。

第7条 「因果の花を知ること、極めなるべし。……」:舞台での藝の出来具合は、すべて因果の法則によっていることを知ることの大切さ。

第8条 「そもそも、因果とて、良き、悪しき時のあるも、公案を尽くして見るに、ただ、めづらしき、めづらしからぬの二つなり。……」:その時々、その相手相手に応じた演じかたを心がけることによって「花」が生ずること。

足利義持の時代の特徴については、このシリーズの前回に多少書きました。足利義満とは性格も好みも違いが大きく、禅に入れ込んでいた足利義持。今は一続きで伝わっている8箇条の別紙口伝も、前半と後半とでは、時代の違いを反映して、ずいぶん内容が違うように思います。後半には、前回書きました禅僧の岐陽方秀に学んだと思われる、禅の教養や禅的な考え方が反映されています。義持の時代の中では早いうちに書かれたようですから、後に書かれた伝書に較べるとその反映のしかたはそれほど大きくありませんが。

足利義持と能でもう一つ記憶に留めておきたいのは、応永19年(1412)頃から、義持が田楽の新座というグループの増阿弥という能役者の藝にたいへん入れ込むようになったことです。それに伴って、それまでおそらく幕府のお抱えに近い能役者の中でいちばんの地位にあった世阿弥は、増阿弥の影に隠れて義持の関心の的から外れてしまったものと思われます。これは、世阿弥にとっては一大事だったはずです。世阿弥の率いる観世座のその後の経済状況もあやぶまれたでしょうし、藝の継承ということが胸の多くを占めていたことがうかがわれる世阿弥にとっては、先祖の代から伝えてきた藝の断絶、道の断絶ということも脳裏をかすめたに違いないのです。

一度書き上げた伝書にかなりの分量の文章を書き足すということは、単なる世阿弥の恣意的な“好み”ではなかったはずです。能の作品にしても伝書にしても、世阿弥が手直ししてその時々に合うものに書き替えていった跡は多くの資料から明らかですが、その世阿弥とても、一度熱心に書いたものを、書き直さずに済むならそれに越したことはなかったでしょう。別紙口伝の第1条に世阿弥が説いた「花」の理は、それまでの3篇の『花伝』の内容に較べても、相当に熟した論となっています。世阿弥もこれを書いて、自身の書き物にかなりの自信を持つことができるようになったのではないかと私は想像しています。

けれども10年も経ち、時代も足利義持政権に移ってからのある時、増阿弥という思わぬ好敵手が現れた。しかも足利義持は、気に入った相手ができると、他が見えなくなるほど入れ込む人物です。この新たな“逆境”に、世阿弥は必死に取り組んでなんとか座を救い、藝の道の断絶を防ごうとした、それが、義持政権の時代に別紙口伝が書き足されたいちばんのきっかけだったと私は考えています。そしてその世阿弥の姿は、別紙口伝のほかにも、義持の時代に書かれた世阿弥の藝論の随所に顕れているように思います。

このように、同じ別紙口伝でも、義満の時代に書かれた部分と義持の時代に書かれた部分を、そのように背景が違うものとして読んでみると、何も意識しないで読むのに較べて、立体的に、深く読むことができるのではないかと私は考えています。同じ「花」についての論も、世阿弥の見る角度に違いがあるというわけです。

次回のこのシリーズでは、“世阿弥の「花」はどこから?”として、「花」の理の由来と考えられるものについて、義満の時代と義持の時代それぞれに縁の深い事柄を挙げて書きたいと思います。

なお、『花伝』別紙口伝の世阿弥自筆本は、観世文庫アーカイブのページから検索して閲覧することができます。

*コメントをいただきました。世阿弥の能の作品と禅の関係についてコメント返信させていただいています。

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「文字なまり」と「節なまり」


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今日作曲される歌は、流行歌など、同じ日本語でも、ふつうの会話や対話とはずいぶん印象が違うものです。それはそのリズムやメロディが、たいていの場合、ふつうの話とは大きく違っているからです。もちろんすぐれた歌は、「この歌詞にはどのようなメロディを付けたらよいか」がよく練られていると思いますが、逆に、その歌詞だったらこのメロディでなければおかしい、ということは、今日ではあまりないものです。極端に言えば、その歌詞を、最初に付けたメロディとは似ても似つかない別のメロディに乗せて歌っても成り立ってしまいます。

けれども、ひろく「歌」と言えるものの中でも、能の謡など近代以前の歌や藝能の場合は、それとは大きく違っていました。原則的には、ふつうの話の時に高い音で発音する部分は高い音で、低い音で発音する部分は低い音で謡ったのです。歌ですからふつうの話とはもちろん違いますが、音の上げ下げがふつうの話と違っているのは不自然なことだったのです。

謡(音曲)についての論を「音曲論」などと呼びますが、世阿弥の音曲論は、実はこれまであまり正確に解釈されてこなかった面があります。謡の技術についての世阿弥の用語(ターム)が今日とかけ離れているために、それぞれの用語の意味がわかりにくいことが、その最大の原因です。そのためにこれまでの研究では、世阿弥の音曲論は抽象論で衒学(げんがく)的で、実質的な内容よりは、専門的で権威のある難解な語句を並べた面があるのではないか、と言われることもあったほどです。

しかし、世阿弥の藝論の全体を見わたして、私は、世阿弥が実質的な内容のないことを書くはずがないと思いました。きっと藝の具体的なことについて書いたに違いない、藝の継承者に肝要だと思われることを伝えようとしているに違いないとしか思えませんでした。すべてがきれいに明らかになるとまでは言えなくても、藝論を何度も読むことによって、世阿弥が何を言おうとしているのかがいつかはそれなりにわかるのではないかと考えたのです。

しばらくそうやって読んでは寝かし、読んでは寝かししていたところ、なんとかとらえられることが多くなってきたように思います。ここではその中から、謡のメロディの付け方についての『音曲口伝』第3条の論を私なりに現代語訳してみます。『音曲口伝』は世阿弥が弟の四郎かその子の三郎音阿弥(おんあみ)に当てて書いた音曲の伝書で、世阿弥自身は書名を付けていないのですが、今日『音曲口伝』(一部の注釈書では『音曲声出口伝』おんぎょくこわだしくでん)と呼ばれています。この第3条は、謡の「なまり」について書いたものです。『花鏡』にもほとんど同じ文の条がありますが、ここでは『音曲口伝』の本文のほうを読んでみます。

一、曲になまる事。節なまりは苦しからず。文字なまりは悪し。文字なまりと申は、一切の文字は、声(ショウ)が違へばなまるなり。節なまりと申は、てにはの仮名の字の声(ショウ)なり。てにはの字の声(ショウ)は、言ひ流す言葉の吟のなびきによりて、声(ショウ)が違へども、節だによければ苦しからず。よくよく心得分けて口伝すべし。

てにはの文字の事。「は・に・の・を・か・て・も・し」、かやうの終わり仮名の声(ショウ)がすこし違へども、節のかかりよければ苦しからず。節と申すは、大略、てにはの文字の声(コエ)なり。

そうじて、音曲をば、いろは読みには謡はぬ也。真名の文字の内を拾いて、詰め開きをば、てにはの字にて色どるべし。

【訳】 一つ、音曲でなまる事〔=音の高低が発話本来のものとは違うものになること〕について。メロディのつながりを美しくするために発話本来のアクセントと音の高低を変えて謡う「節なまり」はかまわない。しかし、個々の〔「てにをは」以外の〕語の音の高低が発話の時のアクセントと違ってしまう「文字なまり」はよくない。「文字なまり」というのは語のアクセントを間違えるから起こるのであり、すべての語は、アクセントを間違えると必ずなまって不自然に聞こえてしまうのだ。「節なまり」というのは、そのような語に付く「てにをは」の仮名の部分のアクセントが本来のアクセントと変わることなのである。「てにをは」という仮名で書く字〔≒助詞〕の部分のアクセントは、発声し流れをなす一連の句の音の自然な響きの結果として、アクセントが本来の在りかたと違ってしまっても、メロディさえ美しければかまわない。“許されるなまり”と“あってはならないなまり”とをよくよく区別しわきまえて、具体的なことは稽古の場で実地に伝え聞くがよい。

「てにをは」の事について。「は・に・の・を・か・て・も・し」、このような、ふつうのことばの後に付ける仮名〔≒助詞〕のアクセントが、発話本来のアクセントと少々違っても、メロディの流れが美しければかまわない。メロディというのは、たいがい、「てにをは」のことばの音響によって、その美しさが生み出されるものである。

そうじて、音曲は、「いろは歌」のようにすべての音を同じ長さには謡わないのだ。漢字で書くようなことば〔≒自立語〕は全体を寄せてそれが一語だとわかるように謡って、一句全体の伸縮は、仮名で書く「てにをは」の字の部分で美しく聞かせながら調節するのだ。

上で世阿弥が言っていることをまとめると、おおよそ次のようになります。

・能の謡では、その中の語=自立語は、発話の時のアクセントを確かめて、それと音の高低が合うように正しいアクセントで謡うこと。アクセントを間違えると不自然に聞こえて美しくない。

・また自立語は、それが一語のまとまりだとわかるように、全体を寄せて謡うこと。

・しかし、メロディのあやや流れを美しく仕上げるために、「てにをは」=助詞(または助動詞も)の部分は、あえて発話の時のアクセントと変えて節を付けることがあってよい。

・助詞(または助動詞も)の部分は、音の高低を発話本来の高低と変えてよいばかりでなく、発話の時と違って適宜長く伸ばしたり短く詰めたりして、一句全体の長さを調節する部分でもある。ただし全体がその変化によって美しく聞こえるようでなければならない。

この世阿弥の説は、実質的には、たとえば次のような謡に当てはまるのではないかと私は考えています。世阿弥作の能『高砂』の、老人夫婦が登場した時の謡の最初の一句です。この謡の世阿弥の節の付け方は知られていませんので、今の観世流の謡本を例にとります。世阿弥当時とまったく同一とは言えなくても、音の長さを伸ばす字や音の高さを変える字はほとんど同じだと見てよいでしょう。

まず、下の太字の部分は、どれも長く引く字です。一句の長さを調節してバランスを整えるはたらきをしているのではないかと思えます。

高砂、松の春風吹き暮れ、尾上の鐘、響くな

次に、下の太字の部分は、「入り回し」と呼ばれる節で、長く伸ばしながら音高を変えて回すように謡い、その末尾で低い音に落とす字です。音が長くなるのは上と同じですが、同時に音の高低を変えているところは、上で世阿弥が言う「節なまり」に該当するのではないかと思えます。

高砂の、松春風吹き暮て、尾上鐘も、響くなり

このほか、「尾上」ということばは、強調するためかやはり「入り回し」を含んだ節を付けていますが、全体として、世阿弥の言う「てにはの仮名の字」を中心に一句の長さを調節し、ふつうの発話のアクセントと変えてメロディを美しく仕上げているということができます。

このように、世阿弥は、ふつうの会話や対話のときの音の高低(アクセント)を基本としながら、「てにをは」の部分をうまく彩って謡の節を付けたのだと私は考えています。ふだんのことばとアクセントが変わってしまっては何を言っているのかが伝わりにくくなり、しかも不自然に聞こえて違和感を与えます。そうならないように注意しながら、しかもふだんのことばとは違った、謡ならではの美しいメロディを工夫しようとした、それが上の世阿弥の論から読み取られるのではないでしょうか。

世阿弥の藝論の背景―室町幕府と禅


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すみませんがしばらくご面倒をおかけします。旧ブログはこちらです⇒link:「世阿弥の思想」

昨年の12月から今年の1月にかけて、観世宗家展が東京で開催されました。今後、京都と名古屋でも開催される模様です。それにちなんで、観世宗家・観世文庫に蔵されている世阿弥自筆の書物に関係の深いことを、シリーズで書いていくことにします。

Ashikaga Yoshimochi (足利義持) and Giyō Hōshū (岐陽方秀) are the most considerable persons that influenced Zeami’s acquisition and comprehension of the Chan culture and thought.

足利義持と岐陽方秀は、世阿弥の禅の教養と思想の修得に影響を与えた、最も注目に値する人物である。

世阿弥のことばが、どのような立場状況にあっても通じ、600年以上の年月を経た今日の私たちにもうったえかけるものがあることは感銘を受けるところです。けれども世阿弥の当時、社会の仕組みや状況、もののみかたが今日と大きく違っていたのは言うまでもありません。世阿弥はその中で能を作り、能を演じ、藝論を書いていました。そこで世阿弥が身を置いていたのがどのような時であり場であったか、なぜ世阿弥がそのようなことを言ったのかに思いを馳せたいと思います。もちろんそれがすべてすっきり見えるはずはありませんが、わずかずつでも世阿弥の立場に近づいていく、その姿勢を大切にしたいと思います。

そのようにして読む世阿弥の藝論は、背景をひとまず横に置いて読んだ時の感触を損なうものではなく、むしろさらに大きな感銘がそこに待っていると、私は思っています。

さて、世阿弥は少年期に、父の観阿弥と都の郊外で能を演じたところを、若き将軍だった足利義満(1358-1408)に見出され、それがきっかけで義満や周囲の有力な武家の前でも演能を行うことができるようになりました。したがって、世阿弥の藝論を立体的にとらえるためには、その背景が当時の都であり、しかもそれが、武家の頂点、日本の政治の頂点だった室町幕府の敷かれていた場所であったことを忘れるわけにはいきません。都は都でも、能楽は、まずは皇族や公家ではなく、武家によって取り立てられた藝能だったのです。

そこで注意したいのは、当時の武家、とくに足利将軍家は、政治的、軍事的な実力を保つばかりでなく、その文化的なステータスも皇族や公家に近づけていこうとしたことです。足利義満は和歌を中心とした和風の文化も相当に重んじていましたが、仏教や藝能との関係にもそれが言えるのです。室町幕府の場合、文化を政治や軍事とまったく切り離して別ものと考えることはできませんが、ここでは文化的な面も大きい事柄として、仏教との関係を見ていきたいと思います。

世阿弥の藝論に禅のことばが見え、禅の思想がうかがわれることは、今ではよく知られています。実際、世阿弥の藝論は、明らかに仏教の宗派の中で、禅をとくに大きく反映しています。その背景として、世阿弥が補厳寺(ふがんじ)という大和国(今の奈良県)の曹洞宗(そうとうしゅう)の一寺院との縁で出家し、曹洞宗に帰依したことが言われてきました。補厳寺の住職から禅を学んだと見られてきたのです。しかし、たしかに補厳寺との縁を軽視することはできませんが、私がこれまで世阿弥の藝論を読み、その周辺の事柄を探ってきた結果から言えば、より注目しなくてはならないのは、武家、とくに足利将軍家が最も深くかかわった仏教の宗派が禅宗だったことです。

武家の仏教との縁は、皇族や公家とは大きく違っています。かつて政治の中心にいた皇族や公家は、仏教の中でも奈良の都に寺院を構えた東大寺興福寺などの南都六宗や、平安時代に入ってからの比叡山高野山といった天台宗・真言宗と強いつながりを持っていました。奈良平城京の寺院は国をまもる「鎮護国家」の役割をになった、いわば国立の寺院ですから天皇家とつながりが強いのは当然ですし、能の『葵上』で生き霊に苦しめられ病となった光源氏の正妻、葵上の祈祷(きとう)に、比叡山延暦寺(天台宗)の僧が呼ばれるのは、皇族と比叡山とのつながりをよく示すプロットです。また、京都周辺の天台宗や真言宗の寺院の中には、天皇の兄弟など、皇族や公家が僧として住まう寺院もありました。観光でも有名な京都の仁和寺大原三千院醍醐寺三宝院宇治平等院など、門跡寺院と呼ばれるのがそれです。皇族や公家はこのように、古くから仏教寺院とつながりを持ってきたわけです。そもそも大陸から仏教を政治に活かすために本格的に摂り入れたのが皇族や公家、舒明天皇や推古天皇と聖徳太子の時代でしたから。

平安時代の中頃からは、それとは別に、公家の間で、自身が極楽浄土に生まれ変わることを願う阿弥陀信仰が広がっていきました。これは「鎮護国家」とはまったく別の個人的な信仰で、天台宗とともに浄土宗的な性格を持つ宇治平等院は、藤原道長(966-1027)の別荘を、息子の藤原頼道(992-1074)が寺院にしたものです。10円玉の図柄にもなっている鳳凰堂(阿弥陀堂)と堂前の浄土をかたどった庭園は有名ですね。

いっぽう武家は、皇族や公家のような身分家柄の基盤を持っていませんでしたから、中世に至って、軍事的、政治的な力が増大しても、それらの寺院とそう簡単に関係を結ぶことができませんでした。足利将軍家などは高野山に納骨する縁を作ったので関係が皆無とは言えませんが、それでも皇族や公家と同じようにはいきません。そこで武家がそれとは別に自分たちの仏教として摂り入れたのが、鎌倉時代に中国の宋に渡った栄西(1141-1215)によってはじめて中国からもたらされたとされる禅宗です。禅宗は、南都六宗や天台宗・真言宗と違って、武士でも気軽に近づいていける宗派だったのです。栄西は帰国した博多に聖福寺、そして鎌倉に寿福寺、京都に建仁寺を建立しました。その頃から日本の僧は中国の僧との交流を求めて多く大陸に渡り、当時幕府のあった鎌倉や京都を中心に、禅宗が盛んになっていきました。その当時日本に伝わった禅宗の宗派は、臨済宗(りんざいしゅう)と曹洞宗の二つです。

幕府は、とくに重要な禅の寺院を選び「五山」と呼んで管轄するようになりました。この五山制度は鎌倉時代からありましたが、世阿弥を取り立てた足利義満は、南北朝時代の末期1386年に、京都・鎌倉に新しく五山を定め直し、禅の寺院のランクを決めました。次のとおりです。

・「五山之上」(別格)……南禅寺:もと亀山法皇の離宮の京都の寺院。

・京都五山……天龍寺相国寺建仁寺東福寺万寿寺

・鎌倉五山……建長寺円覚寺寿福寺浄智寺浄妙寺

足利義満といえば、周囲の武家を従わせていたことはもちろん、皇族や公家をも恐ろしがらせ、日本一の権力者として君臨していた人物ですが、この義満と五山との関係は、あたかもかつての奈良の都の天皇家と仏教との関係を思わせます。義満があらためて五山を決めて管轄したことには、仏教として世をまもる役割を五山に担わせたという意味と、幕府の中枢の足利義満こそがこの世を治める張本人なのだ、という意思表示に近いものを読み取ることができないでしょうか。

この足利義満の時代に、世阿弥は少年期から40歳代半ばまでを過ごしたのですから、世阿弥の藝論に反映している禅も、義満の統治下で学んだものだろうと思いたくなります。ところが義満の時代に書かれた世阿弥の藝論には、禅がまず現れてこないのです。どうやら世阿弥が禅を熱心に学んだのは義満の時代ではなく、義満が応永15年(1408)に死去した後、将軍家を継いだ足利義持(1386-1428)の時代だったようなのです。

実はこの義持、禅に関しては義満以上の入れ込みようでした。幕府の“お勤め”として五山の管轄もきっちり行っていましたが、個人的にも禅林の制度や禅の思想への理解が歴代将軍の中でもとりわけ深く、ふだんから禅僧の格好をし、新しく建てた邸宅は禅風にしつらえ、周囲の大名や禅僧を引き連れてはともに漢詩を作るなど、中国の士大夫(したいふ)ばった生活をして過ごしていたことが、これまでの研究で知られています。そればかりか、権力におもねらないという禅僧の噂を聞き、自分のもとに熱心に呼んではかえって逃げられたという逸話もいくつか遺っているのです。また、自分は禅の信者だから、先祖の骨が納めてある真言宗の高野山にも行かないと、断固とした態度を取っています。

派手で華やかな印象の足利義満に対して、義持はその対極とも言えるような渋い印象を与えます。海外にも有名な日本の美意識として「わびさび」がありますが、この「さび」の文化は、実はこの義持の時代に形成されたのではないか、しかもそれは、能の美意識にまで及ぶのではないかと、私は考えています。義満と東山文化で有名な足利義政(1436-1490)との間で、以前はあまり文化的には注目されなかった足利義持ですが、能を含め、日本文化や日本の美意識を育てるのに大きな役割を果たした人物として、今後もっと注目されてほしいと思います。

さて世阿弥と禅に話を戻しますと、この義持の時代が幕開けして間もない頃、どうやら世阿弥は、学問では当時いちばんと言えるような禅僧と知り合う機会を持ったようです。世阿弥とほぼ同世代のその禅僧は、岐陽方秀(ぎようほうしゅう・きようほうしゅう、1361-1424)という名で、五山の一つ東福寺で修行し、そこを中心に活動していました。方秀と世阿弥は相当にうちとけた仲だったらしく、方秀や周囲の禅僧のもとで、世阿弥は禅を学んだのだと思われます。方秀の技倆は足利義持も認めていたようで、義持の時代になってからしばらくして、方秀は東福寺の住職に任じられました。

世阿弥が方秀とどのように知り合ったのか、その具体的ないきさつはわかりませんが、足利義持の周辺で出会ったことは間違いないと思われます。そもそも義持が禅を重んじたという背景があったからこそ、世阿弥も禅をそれ以前とは較べものにならないほど深く学ぶことができたと言ってよいでしょう。世阿弥の藝論に反映している禅も、「さび」と同じように、義持の時代のたまものと言うことができるかと思います。

観世宗家展に出品されていた『花伝』別紙口伝にも第4条の「初心を忘るべからず」など、禅を学んだ跡が見えることばがあります。「初心を忘るべからず」は世阿弥の別の伝書『花鏡』にも詳しく論じられていることで知られていますが、別紙口伝にもこのことばが見えています。そこには上のような背景があったのです。

このシリーズの次回は、やはり『花伝』別紙口伝でとくに大切なことばとされている「花」について書きたいと思います。

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能の神体の出立と神像(2)


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It is conceivable that the masking and dressing of gods in Waki Nō were influenced by some statues or pictures of Shinto gods.
――脇能の神体の出立はある種の神像の彫刻や絵画を投影しているのではないかと思われる。

――前回の記事「能の神体の出立と神像」の続きです。

日本に育った人で仏像を知らない人はまずいないと思いますが、神像は意外に知られていません。道祖神のように道端で見られるものもありますが、歴史的にも仏像ほど拝む機会の多いものではありませんでしたからもっともです。神像の彫刻や絵画は神社に蔵されているものが多いのですが、全ての神社で見られるわけではなく、神社では神像があっても、むしろ大切に奥にしまわれてきたのです。

今知られている古い神像は、平安時代初期から中頃まで遡れるようです。歴史的に見れば、仏像に倣って神像が作られるようになったと考えられています。近代に入ってからは、一部の神社で文化財として公開されたり、新たに発見されたことがニュースになったりして、少しずつ一般にも神像が知られるようになりました。百聞は一見にしかず、日本の代表的な古い神像の写真のリンクをいくつか次に貼っておきます。女神と対になっているものもあり興味深いのですが、今回は男神の姿にとくに注目してください。

彫刻の例

link:松尾大社(京都)の神像(老年・壮年の男神二体・女神一体)

link:広隆寺(京都、秦氏ゆかりの寺)の秦河勝(はたのこうかつ)夫妻神像(上から13段目の写真)

link:島根県出雲市青木遺跡出土男神像

link:佐賀県鳥栖市幸津天満神社男神・女神像(上から4項目目の男女2体のもの)

絵画の例

link:薬師寺休ヶ岡八幡宮板絵神像

上のリンク先の男神の写真では、冠の「脚(きゃく)」の部分が垂れ、背後に回っているものがあってわかりにくいかもしれませんが、これらの冠の形状と、能の唐冠(リンク先上から4段目)の形状は基本的に同一です(青木遺跡と幸津天満神社の例を私は実際に見ていませんが、やはり同じだと見てよいと思います)。能の透冠(リンク先上から4段目)も、透かし模様がある以外は同じ形状です。

実は上の神像の姿は、日本の平安時代の貴族の正装と同じです。高貴な姿として描くために、貴人の姿が参考にされたのでしょう。そしてさらにたどれば、古代の貴族の服飾は、中国の唐代の官人の服飾をおおかた写し取ったもので、冠は、中国の「幞頭(ぼくとう)」と呼ばれる冠を写しています。

link:幞頭(ぼくとう)

上のページの説明によれば、幞頭は、もとは中国の北西の漢民族とは違う民族の風俗であったものが、唐代〔618-907〕に至って皇帝までもが着用するようになったとあります(このページの説明についてはまた別の回に取り上げます)。これが遣唐使によって日本にもたらされ、日本でも貴族の正装として定着し、またそれが日本の神像の姿にまでつながっているというわけです。

以上特徴的な冠について見てきましたが、神像と『弓八幡』『高砂』『養老』の後シテの神の出立を、その他の面でも簡単に較べてみます。これらの出立は面が「邯鄲男(かんたんおとこ)」、装束は下衣が「白大口(しろおおくち)」、上衣が「袷狩衣(あわせかぎりぬ)」でした(前回の記事に書きました)。

能の面「邯鄲男」(⇒link)は、眉間にしわを寄せています。憂いを含んだ悩みの表情とも言われますが、上の神像にも見られるいかめしさ=緊縮相に近い点には注目したいところです。これが普通の人間とは違う、神特有の威厳ある表情だと言えるでしょう。口ひげ・あごひげが描かれている点は人間と同じですが、多くの神像とも共通しています。

下衣「白大口」は無地の白袴です。神像の絵画では袴に模様の描いてあるものが多いのですが、それほど麗々しいものではないので、白大口という出立は、それと同一とまでは言えませんが近いと言ってよいでしょう。

上衣「袷狩衣」は白大口と違って通常大きな模様があります。(⇒link:《高砂》後シテの出立、9/13以降の写真

上の例のように古い神像の絵画の上衣はふつう無地で地味ですから、この点では脇能の神体は違っています。ただし日光輪王寺常行堂などの摩多羅神像(またらしんぞう)の上衣は他の神像と較べて派手なものです。下にリンクを貼っておきます。

link:日光輪王寺常行堂摩多羅神像(川村湊氏『闇の摩多羅神』表紙より)

このように、全く同一とは言えないにしてもこれだけ共通点があり、全体の姿も近いのですから、両者が無関係とは思えないのです。ちなみに、この神体の姿は、室町時代の能の伝書の内容からもほとんど同じような装束だと考えられています。やはり脇能『弓八幡』『高砂』『養老』の後シテの神体の出立は、神像のイメージにヒントを得て形作られたのではないでしょうか。

ただし、一つだけ違うと言えるのは、脇能の神体は「黒垂(くろたれ)」という長い仮髪を着け長髪を見せていることです。神像が貴族と同じように冠の中に髪を結って入れ込んでいる姿とは異なっています。この点だけは、脇能の神体は冥界の鬼に近いと言えるでしょう。冥界の鬼の役は、ふつうは仮髪の赤頭(あかがしら)を着けています。

・鵜飼(⇒link:《鵜飼》後シテ冥界の鬼の出立、8/11~10/11の写真

このように能では、ふつうの人間と違う超人的な役は髪を結わず、かぶり物の外に髪を垂らして(放して)いる姿をしています。脇能の神体は、ここだけはどうやら超人的な存在だということを強調して、神像とは少し違う能らしい姿として形作られたようです。ふつうの人間と同じように冠に髪を入れ込んでいたら、舞台上の姿としては、ふつうの人物の役と区別がつきませんから。

☆プラスα⇒広隆寺に神像がある秦河勝は、世阿弥の『風姿花伝』神儀篇に大和猿楽の先祖として記されています。関連記事を以前書きました。こちらです⇒link:「世阿弥の猿楽起源説は荒唐無稽?」、link:「秦氏の家系」link:「欽明天皇の夢」link:「太子と河勝」

 

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