「文字なまり」と「節なまり」


*ブログをこちらに引っ越しました。いずれ旧記事もすべてこちらに移ります。

すみませんがしばらくご面倒をおかけします。旧ブログはこちらです⇒link:「世阿弥の思想」

今日作曲される歌は、流行歌など、同じ日本語でも、ふつうの会話や対話とはずいぶん印象が違うものです。それはそのリズムやメロディが、たいていの場合、ふつうの話とは大きく違っているからです。もちろんすぐれた歌は、「この歌詞にはどのようなメロディを付けたらよいか」がよく練られていると思いますが、逆に、その歌詞だったらこのメロディでなければおかしい、ということは、今日ではあまりないものです。極端に言えば、その歌詞を、最初に付けたメロディとは似ても似つかない別のメロディに乗せて歌っても成り立ってしまいます。

けれども、ひろく「歌」と言えるものの中でも、能の謡など近代以前の歌や藝能の場合は、それとは大きく違っていました。原則的には、ふつうの話の時に高い音で発音する部分は高い音で、低い音で発音する部分は低い音で謡ったのです。歌ですからふつうの話とはもちろん違いますが、音の上げ下げがふつうの話と違っているのは不自然なことだったのです。

謡(音曲)についての論を「音曲論」などと呼びますが、世阿弥の音曲論は、実はこれまであまり正確に解釈されてこなかった面があります。謡の技術についての世阿弥の用語(ターム)が今日とかけ離れているために、それぞれの用語の意味がわかりにくいことが、その最大の原因です。そのためにこれまでの研究では、世阿弥の音曲論は抽象論で衒学(げんがく)的で、実質的な内容よりは、専門的で権威のある難解な語句を並べた面があるのではないか、と言われることもあったほどです。

しかし、世阿弥の藝論の全体を見わたして、私は、世阿弥が実質的な内容のないことを書くはずがないと思いました。きっと藝の具体的なことについて書いたに違いない、藝の継承者に肝要だと思われることを伝えようとしているに違いないとしか思えませんでした。すべてがきれいに明らかになるとまでは言えなくても、藝論を何度も読むことによって、世阿弥が何を言おうとしているのかがいつかはそれなりにわかるのではないかと考えたのです。

しばらくそうやって読んでは寝かし、読んでは寝かししていたところ、なんとかとらえられることが多くなってきたように思います。ここではその中から、謡のメロディの付け方についての『音曲口伝』第3条の論を私なりに現代語訳してみます。『音曲口伝』は世阿弥が弟の四郎かその子の三郎音阿弥(おんあみ)に当てて書いた音曲の伝書で、世阿弥自身は書名を付けていないのですが、今日『音曲口伝』(一部の注釈書では『音曲声出口伝』おんぎょくこわだしくでん)と呼ばれています。この第3条は、謡の「なまり」について書いたものです。『花鏡』にもほとんど同じ文の条がありますが、ここでは『音曲口伝』の本文のほうを読んでみます。

一、曲になまる事。節なまりは苦しからず。文字なまりは悪し。文字なまりと申は、一切の文字は、声(ショウ)が違へばなまるなり。節なまりと申は、てにはの仮名の字の声(ショウ)なり。てにはの字の声(ショウ)は、言ひ流す言葉の吟のなびきによりて、声(ショウ)が違へども、節だによければ苦しからず。よくよく心得分けて口伝すべし。

てにはの文字の事。「は・に・の・を・か・て・も・し」、かやうの終わり仮名の声(ショウ)がすこし違へども、節のかかりよければ苦しからず。節と申すは、大略、てにはの文字の声(コエ)なり。

そうじて、音曲をば、いろは読みには謡はぬ也。真名の文字の内を拾いて、詰め開きをば、てにはの字にて色どるべし。

【訳】 一つ、音曲でなまる事〔=音の高低が発話本来のものとは違うものになること〕について。メロディのつながりを美しくするために発話本来のアクセントと音の高低を変えて謡う「節なまり」はかまわない。しかし、個々の〔「てにをは」以外の〕語の音の高低が発話の時のアクセントと違ってしまう「文字なまり」はよくない。「文字なまり」というのは語のアクセントを間違えるから起こるのであり、すべての語は、アクセントを間違えると必ずなまって不自然に聞こえてしまうのだ。「節なまり」というのは、そのような語に付く「てにをは」の仮名の部分のアクセントが本来のアクセントと変わることなのである。「てにをは」という仮名で書く字〔≒助詞〕の部分のアクセントは、発声し流れをなす一連の句の音の自然な響きの結果として、アクセントが本来の在りかたと違ってしまっても、メロディさえ美しければかまわない。“許されるなまり”と“あってはならないなまり”とをよくよく区別しわきまえて、具体的なことは稽古の場で実地に伝え聞くがよい。

「てにをは」の事について。「は・に・の・を・か・て・も・し」、このような、ふつうのことばの後に付ける仮名〔≒助詞〕のアクセントが、発話本来のアクセントと少々違っても、メロディの流れが美しければかまわない。メロディというのは、たいがい、「てにをは」のことばの音響によって、その美しさが生み出されるものである。

そうじて、音曲は、「いろは歌」のようにすべての音を同じ長さには謡わないのだ。漢字で書くようなことば〔≒自立語〕は全体を寄せてそれが一語だとわかるように謡って、一句全体の伸縮は、仮名で書く「てにをは」の字の部分で美しく聞かせながら調節するのだ。

上で世阿弥が言っていることをまとめると、おおよそ次のようになります。

・能の謡では、その中の語=自立語は、発話の時のアクセントを確かめて、それと音の高低が合うように正しいアクセントで謡うこと。アクセントを間違えると不自然に聞こえて美しくない。

・また自立語は、それが一語のまとまりだとわかるように、全体を寄せて謡うこと。

・しかし、メロディのあやや流れを美しく仕上げるために、「てにをは」=助詞(または助動詞も)の部分は、あえて発話の時のアクセントと変えて節を付けることがあってよい。

・助詞(または助動詞も)の部分は、音の高低を発話本来の高低と変えてよいばかりでなく、発話の時と違って適宜長く伸ばしたり短く詰めたりして、一句全体の長さを調節する部分でもある。ただし全体がその変化によって美しく聞こえるようでなければならない。

この世阿弥の説は、実質的には、たとえば次のような謡に当てはまるのではないかと私は考えています。世阿弥作の能『高砂』の、老人夫婦が登場した時の謡の最初の一句です。この謡の世阿弥の節の付け方は知られていませんので、今の観世流の謡本を例にとります。世阿弥当時とまったく同一とは言えなくても、音の長さを伸ばす字や音の高さを変える字はほとんど同じだと見てよいでしょう。

まず、下の太字の部分は、どれも長く引く字です。一句の長さを調節してバランスを整えるはたらきをしているのではないかと思えます。

高砂、松の春風吹き暮れ、尾上の鐘、響くな

次に、下の太字の部分は、「入り回し」と呼ばれる節で、長く伸ばしながら音高を変えて回すように謡い、その末尾で低い音に落とす字です。音が長くなるのは上と同じですが、同時に音の高低を変えているところは、上で世阿弥が言う「節なまり」に該当するのではないかと思えます。

高砂の、松春風吹き暮て、尾上鐘も、響くなり

このほか、「尾上」ということばは、強調するためかやはり「入り回し」を含んだ節を付けていますが、全体として、世阿弥の言う「てにはの仮名の字」を中心に一句の長さを調節し、ふつうの発話のアクセントと変えてメロディを美しく仕上げているということができます。

このように、世阿弥は、ふつうの会話や対話のときの音の高低(アクセント)を基本としながら、「てにをは」の部分をうまく彩って謡の節を付けたのだと私は考えています。ふだんのことばとアクセントが変わってしまっては何を言っているのかが伝わりにくくなり、しかも不自然に聞こえて違和感を与えます。そうならないように注意しながら、しかもふだんのことばとは違った、謡ならではの美しいメロディを工夫しようとした、それが上の世阿弥の論から読み取られるのではないでしょうか。